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ほんとうの姿を見ることができるならば。

じぶん自身でも何度しるすのかなとも思いつつ、
今回のブログもまた、宮﨑駿さん監督映画作品集よりあらためて
『千と千尋の神隠し』を観て考えたことを申しあげます。
昨日のブログでは、映画のラストシーンにて、
千尋が湯婆婆の姉・銭婆へと話していた
「おばあちゃん」という呼び方をね、
湯婆婆に対しても言われていたのは、
ほんとうにすごい! というのをしるしましたが。
では、なぜ、千尋は湯婆婆のことを
「おばあちゃん」と呼んだのか?

そのような問いを立てるとすると、まず
答えとして考えられるのは、うえでもしるしました
湯婆婆そっくりの外見をした
湯婆婆の双子の姉・銭婆のことを、
そのように呼んだから、というのは思われるけど、
でも、それだけじゃあないとも思ったの。
その理由を考えるとすれば、
千尋は、湯婆婆のことを、この人もまた
どこにでもいるふつうの人のようだなあ、
って感じたから。

『千と千尋の神隠し』では、ところどころ、
ある人が姿を変える、
という場面があって。たとえば、
千尋の両親が豚になってしまったり、
ハクが龍の姿になっていたり、
というときにおいて、千(千尋)はその都度
彼らの本当の正体を感覚的に見抜いている。
そしてまた、姿を変えることで申しますと、
湯婆婆の息子・坊(とってもおおきい赤ちゃん)が
銭婆の魔法によってネズミの姿へと変えられてしまう。
ネズミの姿となった坊、及び、同じく銭婆の魔法で
ハエのような姿となった湯婆婆の顔を持つ鳥は、
千と共に旅へと出る。(カオナシとも一緒に。)

この旅へ出る直前、千と会った湯婆婆は
ネズミの姿になった坊と顔を合わせるけど、湯婆婆が
【なんだい、その汚いネズミは?】
と千に訊ねて、千は
【えっ! あのぉ、ご存知ないんですか?】
とのように逆質問をすると、湯婆婆が
【知るわけないだろ。うぅー、いやだ!】って答える。
(このことばを聞いた坊ネズミは、
 落ち込んだような表情になっていた。)
つまり、湯婆婆は、魔法によって
ネズミの姿へと変えられていた坊を、じつは
坊であると見抜くことができなかった。
このとき、千は、具体的なことはわからないけれど、
なにかしらのことを思ったのではないか? つまり、
たとえば、いつもつよいことを言いながらも実際は
湯婆婆もふつうの人なのだなあ、と思ったやもしらない。

この旅において、千たちは無事に
銭婆のおうちに到着して、千は銭婆のことを
最初は「銭婆さん」と呼んでいたけれども、
お話しをするなかで二人は意気投合みたいになって、
最終的には「おばあちゃん」と呼んでいた。
このこともまた、千尋としては、
銭婆もまたふつうの人だと思えたのではないか、
とも想像をするですが。

これらのことはね、つまり、
人の見た目の姿とは、その人の
ほんとうの姿とちがうことがある、と申しますか。
たとえ、その見た目が変わっていたとしても
ほんとうの姿を見ることができるならば、
その人が、ほんとうは誰なのかをわかる。
というふうに解釈できるやもしらない。

そのためにはさ、やっぱり、
ほんとうの人の姿を見ることができるような
「千尋」のごとくならなければならない。
みたいなことをね、これまで作品を
観ていたときは思わなかったですが、今回、
『千と千尋の神隠し』を観ながら考えておりました。

令和6年8月23日