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ことばのシグネチャーと声と文体。

前回noteでは、オリジナリティについて
考えることを申しあげましたが、たとえば、
ことばにおけるオリジナリティ性って、
どういうことなのだろう?????
つまりはさ、ぼくが、今、ここで
「あ」
と記したとしても、この
「あ」
という文字自体には、ぼく自身の
オリジナリティ性なんて全くありゃあしない。
そして、この「あ」の文字から、なにかしらの
文章を続けたとして、その文章にだっても
ぼく自身のオリジナリティ性が含まれるかどうか、
というのもぜんぜんわからないんだから。

以前、吉本隆明さんの講演の中では、
俳句作品から作者の名前を取って十編並べて、
松尾芭蕉の作品、江戸時代の作家の作品、
現在の作家の作品、無名の作家の作品などなどを
読者に見せたとしても、どれが芭蕉の作品で、
どれがふつうの作品なのか、というのは
たいていわからない、というお話しもあったと存じますが。
ぼくは俳句に関して素人ですので、このことについて
なんとも申しあげられないけど、なんだか、
俳句作品におけるオリジナリティ性というのは、
むつかしいものであるとも言えるのかもしれない。
(このことについて吉本さんは、そうではない、つまり、
日本の芸術は縮小させて芸術を新たにさせる、
という傾向があり、その論議は成り立たない、
とおっしゃっておりました。)

そして、さらにはね、
俳句のような短いことばの作品だけでなくって、
小説やエッセイや論文や詩のような長めの文章においても、
作者のオリジナリティ性は、
わかるかどうか? たとえば、利き酒ならぬ
利き小説みたいなことを行ったとして、つまり、
小説作品から作者の名前を取って読んだとすれば、
どの作者の作品だとどれほどわかるのか。
じぶん自身が読んだことある作品ならば、
その内容からわかるかもしれないけれど、
全く読んだことない小説作品十編を全て、
これはどの作家さんの作品なのか?
というのを当てられるのかどうか。
たとえば、ぼくは
村上春樹さんの小説や文章が好きなのだけれども、
この作品が村上さんの作品、と言えるのか?
もしかしたら、言えるやもしらないし、
でも、やっぱり言えないやもしらない。
もしも言えないともすれば、ぼくは
村上春樹さんの作品が好き、と言うよりかは、
村上春樹さんが書かれている、という
ブランドが好き、とも言えてしまうのかもしれないか。

つまりはさ、言い替えれば、
ことばをシグネチャーで見ている、
と言っても過言で無い?!

さらにね、文章のオリジナリティ性について考えるならば、
書籍及びインターネットで活字(フォント)になった文章は
文字が活字だから作者もわかりにくい、
という場合もあると想像するけれども。
ならば、手書きの文字で書かれた文章では
オリジナリティ性はもっと増すかもとも考えられる。
「手書き」の文字は、なかなか
他人の真似をしがたいから。
はたまた、文字をペンで「書く」だけでなくって、
ある内容を「話す」場合には、その
「声」というのもその人の個性だと思う。

たとえば、歌を歌うことにおいても
メロディや歌詞や演奏だけでなくて、
その歌の歌声の「声」が、
いちばんのオリジナリティになっている
というふうにも言えるだろう。

声や歌声に限らず、文章においてもね、
文章の「文体」や、もしくは
文章に宿る「ヴォイス」というものが、
文章のオリジナリティ性と言えるやもしらないけれども。
なかなか、そういうような
文体やヴォイスというのは、
得られないものだという気もするんだなあ。

けれども、ぼくは、ぼくなりに
ぼくの文章を書けたら。
と、ぞんじまする〜。

令和6年8月30日