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鑑賞することしかできなかったとしても。

このごろのブログでは、ずっと
岡本太郎さんのこと、及び、太郎さんの巨大壁画作品
『明日の神話』についてのことをしるしていた。
と申しますよりも、そのことしか
しるすことができなかった、
というふうに言ったほうが、
じぶん自身の気持ちに近いやもしらない。

ぼくの本年の元日のブログでは、世界では
この瞬間もなお紛争や争いが行われていて、
そのことを思えば、ぼくは、どうしても
「あけましておめでとうございます。」ということばは
言い難いような気がしている、と申しつつ、
元日のブログの最後、ぼくは、、

そんな弱いぼくでも、なんとか、
この本年も生きることができたい。

どうか、どうか、
良き一年に成りますように、
と祈りながら。。。

‥‥というようにもしるしていたですが。
たとえば、その
「どうか、どうか、」みたいなふうにね、
ことばをふたつ重ねるところに
じぶんの不安さが現れていたようにも思えるし、
今思えばそんな不安で、かつ、
不穏とも思えるようなブログをしるした
数時間後、大地震が起きた。

ぼくは一応、日々ブログを書きたいと思っているので、
その翌日もブログを書こうとするけれども、
やはり、なかなか、
何のことを書けばよいのやらわからなくて。
ならば、と存じましたのが
大晦日の日のブログで申しあげました、
先日、クラウドファンディングで支援いたしました
岡本太郎さんの壁画作品『明日の神話』での
「大改修プロジェクト」のリターンで届きました書籍を
元日の夜より読み始めながら、さらにその
大晦日の日のブログの文末では、、

大晦日という日に
『明日の神話』のことを想いながら、
「明日」について考えている。

というふうにしるしていた「明日」とは、
もちろん、元旦のことであり、なおかつ
来年、つまり、今で言うならば
本年のことでもあるけれども、
せっかく届いたこの書籍を今、読みたいと想い、
読みながら想ったことをブログで書いてみたら、
何度かのブログになってしまったですが。

書籍を読みながらあらためて考えていたことはね、
『明日の神話』という作品自体が、戦争の
悲劇からの「再生」という解釈もできそうだし、かつ、
行方不明となってしまった作品を発見、修復、そして
初公開より恒久設置へと至るまでの経緯も、
「再生」及び「復活(復興)」のストーリーとして
観ることができるとも考えられるならば、
ぼくは、また、あらためて『明日の神話』の
べらぼうなエネルギーに励まされていた、
という気持ちがございます。

ぼくは弱く、かつ、無力で
役に立つことは何もできなくて、いわば
鑑賞することしかできなかったとしても、
ならば、力強く、鑑賞できたい。
そして、今日もまた
『明日の神話』を想いながら、
「明日」について考えたい。

令和6年1月9日

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