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理解できないことに耐えられないから。

このまえのブログでは、休んだり、遅刻したり、
なにかの誘いを断るようなときには、
その旨を言う以外で、
その理由を添えて言うことが多い、
のこと、そしてまた、
凶悪事件のような出来事が起きたときには、
なぜ容疑者はその事件を起こすに至ったのか?
というようなその理由や動機について、
ニュースやワイドショー等では盛んに言われていて、
たとえば、捜査、起訴、裁判等で
それらを精査することは重要なのだとしても、
第三者のぼくがそれらを知ろうとすることは、
どこまで必要なんだろう?
ってゆうことをしるしたですが。
でも、そう考えてみてもね、
どのようなときにおいても、やっぱり、
理由を言おうとしてしまうのだし、
理由を考えようともしてしまうんだろう。

昨日のブログでは、坂本龍一さんの著書
『音楽は自由にする』を読んだことを申しまして。
そのなかでもとくに、
ニューヨークで住んでおられた坂本さんが
「911」に遭遇なされて、その直後、
いつもは騒々しいニューヨークで、音がしなかった、
というお話しが印象的だったと申したのですが。
同じく「911」について、坂本さんは、
「本物の恐怖との遭遇」とおっしゃいます。。。

 これはもう全く事故ではないと知って、ぼくは慌ててカメラを摑んで、七番街に出て行って写真を撮りました。ふだんは、特に熱心に写真を撮っているわけではないんです。上手くもないし。でもそのときは気がついたら写真を撮っていた。それは、たまたまそこに居合わせた人間の義務として、写真を撮っておかなければいけない、と思った。
 とにかく経験したことのないことが起こっている、という恐怖感がありました。やがて徐々に情報が整理されて、タリバンやアルカイダのことが報じられ、アフガン攻撃が始まり、さらにはイラク戦争が起こって、という段になれば、本当の真相はわからないにしても、理解できないことに耐えられないから、自分として思い描ける限りの可能な筋書きや解釈を、いろんな人が試みることになります。たとえば「テロとの戦い」というのもその1ヴァージョンです。でもテロが起きたときにはそうではなかった。それまで知らなかった、味わったことのなかった恐怖を感じました。新しいもの、本物の恐怖との遭遇でした。

坂本龍一さん著『音楽は自由にする』新潮社、216-217頁より引用です。

 テロのあとは、恐怖の中で必死に情報を集める毎日でした。人間、どうしても知りたくなるんです。情報を集め、状況を解釈してその意味を考えないと、次に何が起こりどう行動すればいいのかわからない。どうやって生きていったらいいのかわからない。
 恐怖が本当に極限にまで達すると思考停止になってしまうのかも知れませんが、その一歩手前の段階では、人は必死で思考するんですね。たとえば雷が隣家に落ちたら、次はどこに雷が落ちるかということを必死に考える。きっと、そこから科学になったり、芸術ができたりするんだろうと思います。

同著、221頁より。

坂本龍一さんのこの書籍を読んだ直後の先日、
ぼくの住んでいる愛知県豊橋市では、
線状降水帯の発生に伴い、
市内を流れる川が危険な水位に達するとして、
警戒レベル5の「緊急安全確保」が発出された。
このとき、ぼくは、自宅に居ながら
市内及び近隣市がどのようになっているのか、を、
テレビもそうなのですが、とくには
ネット及びSNSでずっと調べていた。
このこともね、もしかしたら、坂本さんのおっしゃる
「恐怖の中で必死に情報を集める」
のことと似ているやも知らない、とも思いました。
つまり、やっぱり、
人間、どうしても知りたくなるんだろう、と。

「理由」のことを記しました先日のブログの中で、及び、
今回のブログの冒頭のところでは、
ある事件に関する理由や動機に関して、
第三者のぼくがそれらを知ろうとすることは、
どこまで必要なんだろう? とも書いたのですが。
でも、こういうふうに考えてみるとね、
それはおそらく、たとえば、その出来事に関して、
「第三者」なのか、もしくは
「当事者」なのか、によっても、
思うことや考えることは変わってくるのだろう、
というのは、感じます。

でも、たとえば、このこととは
「911」のこともそうだとも思うし、もしくは、
大震災以後、及び、コロナ下以後でも
起こっているのだろう、とも存じます。

上の箇所での引用で申しましたが、坂本さんの言われる
「本当の真相はわからないにしても、
 理解できないことに耐えられないから、
 自分として思い描ける限りの可能な筋書きや解釈を、
 いろんな人が試みることになります。」のことは、
おそらく、まさに、そうなのだろうなあ。

また、坂本さんのおっしゃるように、そこから
「科学」や「芸術」が生まれるのだとすれば、
つまり、「科学」及び「芸術」とは、
悲しみや苦しみや恐怖のような状況の中で、
どうにかして生きようとするために、
考えられるものなのやも知れない、
ってゆうのもね、あらためて、想いました。

令和5年6月5日

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