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物語と進みつ戻りつ。

おとといのブログの中で申しました
村上春樹さんの仰った「地下二階」のことをね、
このことばを読んだのは、もう
かれこれ何年も前のことなんだけれども、
今、また、あらためて考えているの。

たとえば、人間を「家」と見立てて、
一階が生活のフロア、
二階は寝室やプライベートのフロア、
地下階はものをストックしたりするような
すこし奥まった空間、そして、この
地下階には隠れた別の空間が存在している。
その空間へと入るのはむつかしくって、
簡単には見つからない秘密の扉より入ってゆくことになる。
そこが、つまり「地下二階」であり、
この階で体験したようなことを描くことが、
いわば、物語である。
というような考え方を村上さんは仰ったとぞんじますが、
これはでも、いわゆる小説として描かれるような
「物語」だけでなくって、人間誰しもの中に
「地下二階」及び、そこへと通ずる
「秘密の扉」があるんではないか?

でも、誰しもの中に
それらがあるとは言ってみても、誰もが
そこへ到達できるかどうかはわからない。
ぼくだっても簡単にはそこへと行かれない。
だからこそ、ぼくは
「物語」を読むのかもしれないなあ。

つまり、物語には、そういうような
「地下二階」や「秘密の扉」のことが描かれていて、
それらは、もちろん
ぼく自身の「地下二階」では無いとしても、でも、
ぼく自身の「地下二階」へと通ずる
「秘密の扉」を探すためのヒントにもなっていたり、
もしくは、物語の中ではその扉を開くための
「鍵」を見つけることもできるやもしらない。

しかし、かと言いつつ、
ぼく自身の「地下二階」には何があるか?
ってゆうのはぼくにもよくわからない。
そこには、お宝が眠っている、とか、
そういうことでも無さそうだし。
そして、やっぱり、そんなような
「地下二階」って怖そうだし。

でも、それでも、ぼくは
ぼく自身の「地下二階」が、
どんなふうになっているのか?
ってゆうのを見てみたいし、なおかつ、
見なければならないんではないか?!
とも思える。

ならば、おそるおそる
その空間の中をのぞきこみながら、
一歩、一歩、足を踏み入れながらも
地上へと戻るための道筋は確保しながら、
進みつ戻りつすることができたら。

令和5年12月29日

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