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目に映る全てのことは、メタファー。

Mr.Childrenのとある曲を聴いたことで
「メタファー」ということばを知り、また、
村上春樹さんの小説作品を読んだり、かつ
吉本隆明さんの講演を聴いたり、によって、この
「メタファー」について考えるようになった。
とは言ってみても、いまだ
「メタファー」というものとは、
どういうことなのか? ってえのはね、
じぶんとしてはよくわかっていなかったりするけど。

「メタファー」とは、
比喩の一種であり、いわゆる
「隠喩(暗喩)」のことだ。

「〜のような」のような語句が使われる比喩は
「直喩(明喩:シミリ)」と呼ばれていて、
そうではない比喩、つまり、
「〜のような」の語句が使われない比喩が
メタファーとなる、とぞんじますが。
ともすれば、たとえば
「〜のような」のような語句が使われる直喩の文章は、
読んでいる人も、それが
比喩だと思うことができるじゃん。
つまり、「〜のような」的な語句が
比喩の合図となっているから比喩だとわかる。
でも、そうではない暗喩の比喩は
「〜のような」みたいな比喩の合図の語句が
使われないんだから、一見、その文章が
比喩なのかどうかわからないやもしらない。

言うならば、たとえば、
「比喩が使われていない文章」と
「比喩ではあるけれど、
 比喩の合図の語句が使われない文章」とでは、
そのどちらとも比喩の語句が使われてないんだから、
どちらも似たような文章だ。
ならば、それらの文章を読みながら
どの文章が比喩でなくって、
どの文章が比喩である、と、
見定めることができるのか?

ってゆうふうに当初は考えていたのですが、
あるころから、ぼくはそういうふうに
考えるのはちがうやもしらない、
とも思ってきたんだった。

このあたりのことはまだうまく言えないんだけど、
メタファーというのは、
レトリックに限らない、つまり、
文章表現の技法に限らないのではないか、
と申しあげますか。つまりはさ、もう
いっそのこと、あらゆる
「〜のような」のような語句が使われてない文章は全て、
メタファーの文章なのだ、って思うことしか
読者のぼくにはできない、というか。
どれがメタファーの文章で、
どれがメタファーの文章でないか、なんて
完璧に見極めるのは非常に困難なのではないか?!!

昨日のブログではね、神社の参拝における
二拝二拍手一拝の際において、
手を合わせてお祈りをするときには、
心の中でお願いごとをつぶやく、
という場面のことを記しましたが。
「心の中でつぶやいたお願いごと」及び、この
「お願いごと」を神様が聴いてくださり、そして、
神様よりお返事をいただけるとしても、
そのお返事も人間のことばにはなっていないはずで。
ならば、そのお返事も、声や文章として
聴いたり読んだりはできないからこそ、
「感じる」ということだと思うけれども。

ある意味では、この
「感じる」ということも、
メタファーの一種だと思うのよね。

つまり、一見、なんにも
比喩が使われていない文章だと思えたとしても、
じつは、そこには
隠喩として比喩が隠れていて。
その比喩を感じ取るかのごとく、
神様からのお返事を読み取り理解する。

そういうふうに考えるともすれば、
全てはメタファーだと思える、というか。
それはね、つまり、
ユーミンの歌で言うならば、
【目に映る全てのことは メッセージ】
なんだろうかなあ。

カーテンを開いて、静かな木漏れ日の
やさしさに包まれたい〜。

令和5年9月27日