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子供にどうしてもアメリカの教育に触れてほしかった理由② 多様性。頭で考える前に、それが当たり前で、もはや無意識の感覚になってほしい。

私は多感な中高大の9年をアメリカで過ごしました。

アメリカが全てにおいてベストな国だとは思ってはいません。むしろ日本の方が好きな部分は多いですし、さいごは日本がいいと思っています。

でも自分の子ども達にはアメリカの教育を一時的でも良いので受けてほしく、今回、自分の留学も兼ねて、アメリカに行くことにしました。

1つ目の理由は、以前書きました。


今日は、2つ目の理由を、自分の中で整理してみたいと思います。


家の中と、外で、異なる価値観。

子どもたちには、超ローカル、公立保育園から公立小学校に通わせています。

子どもというのは敏感で、「うちのママが普通とちょっと違う」と言うことに薄々気づき始めているように思います。

何が普通で、何が違うのか、言語化できてない気もしますが、保育園や小学校で見聞きする「常識」が、ママには通じないことがある、と言うことを、自然と理解しているように感じます。

特に最近、なぜそう感じるかと言うと、例えばニュースなどを見ていて私が何かコメントすると、小4の娘が、「ママ、それはすごくアメリカ的な考え方で、日本の小学校では、こう言うふうに教えられるんだよ」と説明をしてくれるようになってきたのです。

例えば、LGBTQ、人種、宗教、性教育、受験や勉強に関する価値観、家庭内の性別的役割や先入観、など。

子ども達が小さい頃から口酸っぱく、ニュースではああ言ってたけど、世の中にはこう言う人もいるけど、ママはこう思う、世界にはこう言う考え方もあるんだよ、となるべく色々な考え方があることを伝えて、一つの価値観が絶対正しいわけではないことを伝えるようにしてきました。


例えば、保育園の遠足の日。

親がお弁当を作って持って行きますが、その日、私がお迎えに行くと、「お母さんのお弁当、キレ〜イに食べましたよ!」と保育士さんが教えてくれます。

でも私は「あ、わたしじゃなんです…」と言うこともザラ。保育士さんとわたし、双方、ちょっとバツが悪そうな空気が走ります。

我が家はだいたい、主人がお弁当を作って持たせてくれていました(私は仕事柄、出勤が早く、朝のお支度の時に家にいないことも多かったため)。

帰宅後に夫に苦笑い(かつ感謝mm)しながらこのエピソードを話しますが、子ども達からすれば、「世の中はママがお弁当を作ることが多いらしいが、我が家はパパが作るし、うちのママとパパは、お弁当はママ、と言う考え方が社会的無意識にあることに対して、違和感を持っているらしい(なぜかは分からん)」と言うことを、何となく頭の中で形成していきます。


もちろんアメリカで生活しないと異なる価値観を持てないわけでは決してないですし、お弁当はママ、という考え方に違和感がある人は、いまの日本にはたくさんいるかもしれません。

そのため、あくまで私の原体験では、と言う話です。

お弁当はママが作るもの、という感覚がわたしの中に一切ないのは、自分自身が子どもの頃に、アメリカ社会で色々と感化された結果だと感じています(なにせ、わたしの母は専業主婦で、お弁当は、当然のように、母が作っていましたから)。

こういう日常のちょっとしたことで、社会には「気づかないと知らない当たり前のような価値観」がたくさん転がってるんだな…と思い、その価値観が「必ずしも当たり前ではなかったんだ!」と子どもにも感じてもらいたく、アメリカでの生活を少しでもできたらと思うようになりました。

(上記の例は、あくまで一つの価値観が唯一の正解ではないという意味の例で、決して、ママがお弁当を作るのはおかしい、とかそう言う意図ではありません。お弁当に関わらず、家庭内や社会において、性別的役割がなく、関係者で対等に話し合える、やれる人がやる、と言う考え方に、より多く触れられるといいなと言う意図です。)

例えばLGBTQ。

他にも、自分の原体験があります。

私がいた学校がたまたま寛容で、素晴らしい生徒達だったのかも知れない、という前提ありきではありますが…。

私が8年生(日本で言う中2)の時点で、わたしが知っていただけで、カミングアウトしているレズビアンの子が2人いました。そしてその後、それまでは男の子と付き合ってた別の女の子が、レズビアンの1人と付き合い始める、と言うことがありました。

周りも、さすがに最後の子がボーイフレンドと別れてレズビアンの子と急に付き合い始めた時は、ややゴシップ的に噂になりましたが、一貫して、差別とか、陰口とか、そう言うことはなく、相手が男性なのか女性なのかはあまり関係なく、よくある恋愛トーク的な雰囲気でした。

まさかLGBTQが生きづらい世の中だと言うことは、大人になって社会問題を知るまでは、恥ずかしいほど、無知でした。

逆にいうと、そのくらい、少なくとも「表面上は」違和感のようなものは全く語られませんでした(もちろん、本人たちは、第三者には見えない苦労などがきっとあったのだと察します)。

ちなみに上記は1995年ごろ。今から30年前のニューヨークの中学校での話です。

アメリカ全土が必ずしも上記のような雰囲気ではないと思います。とはいえ、今から30年前の中学校で、ここまで(少なくとも表面上は)受け入れられていたのは、大人になった今、すごいことだったと感じています。


例えば養子や不妊治療。

これは不妊治療のブログでも書いたことが何度もありますが、子どもの頃から当たり前のように養子も周りにいて、「養子を迎える」と言う人生の選択をする人に対して何ら疑問はなく、尊敬すら感じていました。


中高の頃、見た目はアジア人だが両親が青い目で金髪、という子がいました。

本人は「わたしは養子で、変に気を遣われないように、あとわたしが傷つかないように、明らかに養子だとわかるようにあえて違う人種にしたって親が言ってたの、子供が欲しかったけどできなかったからなんだって」と言っていたのを聞いたことがありました。

また一見、なんの変哲もない一家の友達も、よく聞くと、両親が子連れ再婚同士のため、兄は腹違いで、妹は、再婚後に養子にきた子。なんてことも。

日本にいた時は、親が離婚している子は、周りに1人とか2人でしたが、アメリカに行くと、離婚、再婚、別居、いろいろありました。

もちろん、子どもへの心理的な負担は別の話ですが、養子、離婚、腹違い、など、そこまで珍しくないので、それ自体は、あまりフォーカスされない感じでした。


働き始めてからも、海外オフィスの同僚から聞く話には驚かされることばかりでした。

ある同僚には3人の子供がいて、えー、結婚してるなんて知らなかった!と言ったら、だってしてないから。みんなドナーとの子供。と言われ。

今度育休取るからと言われたので、えー、妊娠してるなんて知らなかった!と言ったら、だってしてないから。今度の子は養子なの。と言われ。

いや、すごいわすごい。

そう考えた時、日本は、まだこのような多様性に対する寛容性や、たとえ周囲に対しては寛容でも、やはり自分の子どもとなれば血がつながって欲しいという方が多かったりと、状況は異なります。

それらの価値観を否定するつもりは全くないのですし、(自身がどうしたいかの価値観は)尊重されるべきだと思います。

ただ、自分の子どもたちには、そのような価値観に縛られないような感覚を持てるといいなと感じていました(自分のことも、他人に対しても)。

(かく言う私も、子供がいると聞いたら、結婚してると思い込みましたし、育休取ると聞いたら、妊娠出産したと思い込んだので、まだまだ自分の中にアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)があるのだなと反省しました。)


ちなみに、ある会社にいたとき、体外受精で妊娠した同僚が多いな、と思い、自分の周りの同僚50人くらいを、計算してみたところ、1/3 が体外受精での妊娠・出産 (英語でIVFと言います) でした。

日本では、最近増えてきたと言っても、新生児の人数に対して、約1割なので、3倍以上の割合です。


教育や学歴に関しても。

確かにアメリカにもエリート的な学歴社会はあリます。私も結局はエリート校と呼ばれる大学に行きましたし、そもそも通ってた中高も(これはどちらかと言うと親の選択でしたが)超進学校でした。

ただその理由が、偏差値、とか、良い会社に入れるから、ではなく、これがしたいから、将来あの道にいくために、という、内発的な動機である点が大きく異なるように思います。

例えばハーバードは分かりやすいトップ校でありますが、成績が良いからと言って必ずしもハーバードは第一志望にしない生徒も多いようです。

私の母校コロンビア大学を例に言うと、「アートを学びたいから、ハーバードを蹴ってコロンビアに来た」という子もいました。

東大を蹴って芸大に行きます、と言うのとは違って(それはアメリカで言うと、ハーバードを蹴ってジュリアードにいきますと言う方が近いかと思います)、ちょっとステレオタイプな例かも知れませんが、建築を勉強したいから、東大を蹴って早稲田に行きます、みたいな感覚に近いかと思います。

(それも早稲田の建築の方が偏差値が高いから、ではなく、あそこにあの先生がいるから、とか、あんなことが学べるから、とかそう言う理由です。)

そのため、アメリカの大学のランキングを見ると、どれが本当なのかわからないほど、ランキングごとに顔ぶれが変わります。

逆に言うと、アメリカの大学受験は結果が全く読めません。

統一試験の準備をするとか、学校の成績も手を抜かないとか、アプリケーションエッセイをしっかり書くとか、そう言う当たり前のこと以外は、受験対策的なことは不可能に近いように感じます。

不可能というか、何が「当たる」かは、その時にならないと本当に分からないから、当てに行こうと思うととても難しいのです。


私は毎年母校の面接ボランティアをしており、これを痛感します。

受けにきてくれる子は、どの子もすごい子ばかりです。あとは、もう、コロンビア大学の相性とか、その年に求められている学生像とか、そういう次元のようにも感じます。

(※わたしはあくまで卒業生ボランティアとしての面接官であり、合否への決定権は持っていませんし、合否判定の詳細は一切存じ上げません、念のため。)


コロンビア大学に関わらず、アメリカの大学受験は、意図的に目指すゴールではなく、それまでの人生の集大成で、私はたまたま◯◯大学とご縁があった、と言う結果論くらいの捉え方がちょうど良いのかもしれません。

親としては、もちろん、そんな気楽な捉え方は、とても難しいのですが…。

でも、子どもには、偏差値で自分の価値を測られるかのような価値観よりも、結局は自分は何をしたいの?そのために大学にいった方がいいの?いくならどこがいいの?と言うマインドで自分の進路を決めて欲しいなと思います。極端な話、大学に行く必要がなければ、行かなくてもいいと伝えています。

(アメリカの大学は何千万円。そんな大金かけて、ただ4年間、イヤイヤ勉強するために行くのは、時間もお金ももったいない。だったらその分、やりたいことに、そのお金と時間をかける。そんな決断の上、自分で生きる道を切り開いていける子になってくれたらな…と願っています。)


色々な価値観に触れてほしい。

自分は子どもの時に、こう言った価値観に自然と触れることができ、それが今の自分にポジティブに影響していると思えるため、それを私が言葉で子供に「教える」「押し付ける」のではなく、子ども達自身にも、それを自ら体感して、自分なりに受け止めて考え咀嚼、消化して欲しいなと思いました。

そのためには、やはり、実際にその地で生活し、肌で感じて欲しい。もしかしたら、私とは違う受け止め方をして、異なる価値観をもつかも知れないけれど、それで全然良い。私と同じ人間になんてならなくていい。


そして最後に、これは子ども達にも伝えていますが、もちろんアメリカの全てが上記のように寛容ではないし、ここ数年ほどの動きを見ていると、もしかしたら30年前よりも、退化というか表面化というか、表現が過激になり両極化している側面もあると感じています。

残念ながらそれも目を背けられない現実であり、アジア人、マイノリティとして、身の危険がない程度に、触れる機会を作り、自分たちで考えてくれたら…と願っています。



🌷ここまで読んでくださりありがとうございました!🌷

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