私たちは「知らない」ということに気づくことができるか

最近の私の関心事といえば、「知識とは何か」ということだ。前稿では「無知の知」についてあれこれと考えたが、本稿はその延長戦といった感じである。かといって、本稿を読むにあたって、必ずしも前稿を参照していただく必要はない。二稿とも、どうせ駄文なのだ。それなら、今から書くそれが駄文であるとわかっているのにも関わらず、なぜ書くか。それは、書いてみないと知ることができない「何か」があると、信じているからである。

知らないということは、知ることができるということだ

前段にて「知識とは何か」ということに関心があると述べたが、私がその問いに答えられるようになるには、私はあまりに若すぎるように思う。だからと言って、私は諦めない。その問いの外堀を埋めるような形で、「答え」に迫っていくことはできるだろう。

「知識」が何であるかがわからないならば、知識がない、言い換えて「知らない」という状態について考えてみたい。この世界の内側にも外側にも、私の知らないことはたくさんあるだろう。それは、読者諸賢におかれても、程度の差はあれど、同じことだと思う。私たちには、「知らない事」がそれはもう山ほどある。私たちは、その「知らない事」の量に絶望するものである。

その「知らない事」の内実をもう少し深めていきたい。私の「知らない事」と言えば、例えば料理の仕方とか、わからない。数式を全然知らない。人間がわからない。とか、色々ある。挙げだしたらキリがない。しかしそれらは、経験したり、暗記したり、頑張って勉強したりすれば、いつの日かわかるようになることだと思う。哲学的な命題でさえも、人はやがて「わかる」ようになる、ようするに「答え」を見つけられるというものだ。もちろん遠回りもあるだろうが、「知る」か「知らない」かで言えば、それらは絶対的に「知る」ことができるのだ。

この理屈でいくと、私たちには「知らない」ことなんてない、ということに気づく時が来るだろう。私たちは、適切で十分な努力をすれば、どんなことでも「知る」ことができる。それは、いまの私たちが「知らない」という状態だからである。私たちは「知らない」ゆえに、「知る」ことができる。そのことは、全ての「知らない」ことに当てはまる。

私たちは、究極的に無知たり得ない。いまは知らなくても、いつか絶対知ることができる

知っている、知らない、そして第三の領域

私たちは、知っていることも知らないことも、見えているし、感じている。それは私たちがそれらのことを視覚し、知覚しているからである。私たちが視覚、知覚していることは、「知っている」か「知らない」に二分することができる。そういう意味で、私たちは全てのことを知ることができる。

それでは、私たちに見えていない領域があるとしたら、どうであろうか。

前節で、私たちは、「「知らない」という状態」であれば、「どんなことでも知ることができる」と書いた。この言葉に嘘はない。そして、「知らない事」を「知る」ことより難しいのは、「知らない」という状態になることではないだろうか。

私たちに見えていない領域、それは、「知っている」とも「知らない」とも言えない、まだ触れていない領域なのである。私たちが「知らない」という状態になるためには、そこに触れなければならない。だが、見えないものを見ようとして見ることはできない。見ようとして見ることができるのは、見えるものだけだ。「大切なことは目に見えない」とは、そういうことである。だから、見えたいない領域に触れることすなわち「知らない」という状態になることは、ものすごく大変なことだ。

見えないものが見る、ようするに「知らない」という状態になる難しさを考えると、「知らない」ことを「知る」ことがいかに簡単かがわかって来るのではないだろうか。もはや、「知らない」ということは、「知っている」も同然である。本当に「知らない」ことは、「見えないこと」の中にあるのではないだろうか

私たちに見える全てのことは、「知っている」か「知らない」かの二択である。だから、私たちは、無知にはなりえない。絶対的に、無知であることに気づくことができない。本当に知らないことは、私たちには見えないからである。そして、それが見えたが最後、私たちはそれを「知らない」と知ってしまう。

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