耳の聞こえない生徒にピアノを教えられるか

 94歳でこの世を去られたビブラフォンのレジェンドと、とあるご縁で2度ご一緒させて頂くことがあった。私も同じイベントの出演者として、打ち上げの場では隣に座らせて頂いた。まだ若かった私は、雲の上の存在のような音楽家たちばかりの場で、思い返すだけでも赤面するほど未熟な存在であった。
 そんな私に、おすすめの漢方の話から、スポーツカーの話、もちろん演奏の話まで色々と気さくにお話し下さった。音楽界のレジェンドということを差し置いても、どこから見ても正真正銘のカッコイイお爺様であった。
 最近、その時に伺ったエピソードでよく思い出すものがある。それは、その方が80歳を迎えられた頃に、プライベートレッスンの門戸を叩いてきたある生徒さんのお話である。「僕、耳が聞こえない生徒に教えてるんですよ。この年になって、こんな勉強させてもらうことがあるだなんて、思ってもいなかった。毎回のレッスンで、彼の音楽を感じる心に感動させられるんです。」とおっしゃっていた。
 具体的にどのようにレッスンされているか、肝心の部分は忘れてしまった。しかし、耳が聴こえない方に楽器を教えるという発想が私になかったので、衝撃を受けた。しかも、差別的な発言になってしまうが、「60年を超えるキャリアの偉大なレジェンドが」という所にも正直驚いたのだと思う。
 ピアノを専門に学んでいると、似たような境遇の人たちに囲まれて生きることになる。なので、自分にとっての常識に当てはまらない人と出会うと、混乱してしまう。世界が狭いのだ。
 自分が経験してこなかったことを教えるのは、難しい。明日、私の元に耳の聞こえない生徒がやってきたら、私はどう向き合うだろう。「耳の聞こえない生徒にピアノを教える方法」と検索するだろうか。きっと最善の方法を模索するに違いないが、最も大事なことは、「その生徒の心にどれだけ寄り添えるか」ということである。先のレジェンドの言葉がそれを教えてくれている。
 地球上には色々な人間が生きていて、音楽を学びたいと思う気持ちにも千差千別ある。つい、自分の考える「正解」に導くことに焦ってしまうが、親身になって生徒の話を聞き、心に寄り添い、共感し、人と人として向き合うこと、それができて初めて先生としての責務を果たせるようになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?