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BTSと「アナーキック・エンパシー」③ 他者の靴を履けなければ、革命は起こせない

#BTS  #ARMY #LOVEMYSELF #アナーキック・エンパシー #ブレイディみかこ

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ブレイディみかこさんの著書『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読んで、BTSは「アナキズム(揺るぎない自己)」に裏打ちされた、「エンパシー(他者理解能力)」を持ったチームなのではないかと感じた。その考察第3弾。

※第1弾、第2弾を読んでいない方は、まずはそちらから読むことをおすすめします。

前回の投稿では、過去の発言や行動などから、彼らの「エンパシー」能力の高さと「アナキズム」の強さについて考えてみた。そして、彼らはその振る舞いや生き方、主張や意見に、常に「利他的視点」と「利己的視点」の両方がバランスよく盛り込まれていて、だからこそこれほどまでに人々に支持されているのだろうと書いた。

今回は、彼らがどうやって自身の「エンパシー」能力を高め、「アナキズム」を磨いたのかについて考えていきたい。

『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』には、このように書いてある。「エンパシーは意図的に他者の立場に立って想像してみる能力であり、能力である以上は訓練で向上させることができる」。生まれつきの才能や特性とは違い、「エンパシー」は自分の意志や環境、努力によって伸ばすことができるのだ。

「アナキズム」は、「何にも左右されない自分という軸」のこと。能力とは少し違うものかもしれないが、「エンパシー」同様に、心がけや努力次第で強固に、そして鮮明にしていくことができるはずだ。

7人の小さな民主主義の学校

同著には、カナダの教育者で社会起業家のメアリー・ゴードンが立ち上げた「ルーツ・オブ・エンパシー」というプログラムが紹介されている。これは、赤ちゃんから「エンパシー」を教わるというもので、ニュージーランド、アメリカ、スイスなどの欧米や、韓国でも学校教育の一環として取り入れられているのだとか。

このプログラムでは、生後2カ月~4カ月の赤ちゃんが親とともに定期的に教室を訪れ、「Tiny Teacher(ちいさな先生)」として、子どもたちと交流する。教室の真ん中に緑色のブランケットを敷き、その上に赤ちゃんを乗せて、子どもたちはその周囲に座る。そして、インストラクターは子どもたちにこのように問いかける。「今、赤ちゃんは玩具に手が届かなくてイライラしています。あなたはどんなときにイライラしますか?」「赤ちゃんは今どんな気持ちだと思う?」「どうしてそんな気持ちになったんだと思う?」

子どもたちは、言葉が話せない赤ちゃんが何を感じているのかを想像し、周囲の友だちと自分が思っていることを話し合う。人間の感情を言葉にして表現すること、それを他者にコミュニケートすることで、他者視点が養われるのだという。

プログラムの創始者であるメアリー・ゴードンは、「ある意味では、ルール・オブ・エンパシーは、子どもたちが教室で囲んでいる緑色のブランケットの上で参加型民主主義を築こうとしているのです」と語っている。この場合の民主主義とは、自分の頭で考え、自由に意見を述べ合って有益なものを獲得することだと言えるだろう。

また、イギリスのとあるフリースクールの事例も紹介されている。その学校は、「幸福は子どもの中の個人的な自由の感覚から育つものだ」という信条のもと、出席するかしないかは自由に決める、校則は自分たちで話し合って決めるなど、子どもの自主性と能動的な意思に基づいて運営されているのだとか。

そのような自由な環境で育った子はわがままになるのではという批判もあるが、何かもめごとが起きたときには、話し合ったり投票したりと、必ず自分たちで解決するメンタリティが備わるのだという。そして「わたしは学校が大好き。自分自身でいられるから」と生徒が語るほど、生徒にとって満足度の高い学びの場となっている。

同校を訪れた国の教育監査局は「学校の中心にあるものは、学校運営における民主主義的なアプローチである」「生徒たちは自分の生き方に対する明確な価値観を育て、寛容と調和の雰囲気があることがあきらかにわかる」と報告したそうだ。

これら2つの教育現場に共通していることは、「民主主義」だ。民主主義のなかで「エンパシー」と「アナキズム」の両方が育まれているのである。

私は、BTSはたった7人のグループではあるけれども、「大いなる民主主義が実践されている小さな学校」と言えるのではないかと思う。

同著ではアメリカの人類学者、デヴィッド・グレーバーの言葉を借りて、民主主義についてこう定義づけている。「違う考え方や信条を持つ人々が集まってひたすら話し合い、落としどころを見つけて物事を解決していくのが民主主義の実践だ」と。

BTSは、出身地も違えば年齢もさまざま、ラッパーとしてのバックグラウンドを持った者、ダンサーとしてその才能を評価されていた者、アイドルになるなんて考えたこともなかった者など、7者7様のメンバーによって構成されている。しかも、好き好んで集まった7人ではなく、事務所が「はい、あなたたち7人でBTSですよ」と決めたグループだ。だからこそ、仕事の面でも私生活の面でも、意見の相違もあれば衝突もあった。けれど、同僚として、そして同じ屋根の下で暮らす家族として、彼らはその都度自分たちで話し合い、解決をしてきた

とあるテレビ番組で、彼らのプロデューサーであり、事務所の代表であるパン・シヒョク氏がこんなことを話していた。「楽曲を作るにあたって、彼らに伝えたのは『自分たちの内面の話をしなければいけない』ということ。でもそれ以外は、練習時間を強制的に決めたり、生活を制御したりしたこともありませんでした。すべてにおいて自由を与え、メンバーが自発的に参加できるようにしました」

デビュー前もデビューしてからも、彼らは納得がいくパフォーマンスを作り上げるために、練習室に寝泊まりをして1日十数時間も練習をしていたという話を聞いたことがある。それは事務所に言われたからではなく、すべて自分たちで自主的に決めて行っていたことなのだ。

J-HOPEの直近のインタビューによると、「以前より効率よく練習ができるようになったけれど、パフォーマンスの重要性をメンバーそれぞれが理解していて、練習の重要性を全員が認識している」とのこと。デビューして8年経った今でも一切手を抜くことなく、パフォーマンスの質を上げるべく、メンバーの自主性によって彼らは自分たちが納得いくまで練習をし続けている。

生活面にしてもそう。最近のドキュメンタリー映像で「宿舎にいた頃、僕がご飯担当でしたよね」とJIMIN。「洗濯は僕とVが担当していた」とJ-HOPE。また、末っ子のJUNGKOOKが高校生のときにはJINがお弁当を作って送り迎えまでしていたというし、仕事上の関係性を超えた日常を共に過ごすなかで、彼らなりのルールや譲れないもの、それぞれの役割やグループとしてのカラーが生まれていったのだろう。

パン・シヒョク氏はこんなことも語っている。「ケンカは2人でしても、解決は7人一緒にしろと言いました。すごく恥ずかしいことでケンカをしても、ほかのメンバーにそれを共有して、最後には7人一緒にぞろぞろと報告をしに来るんです。こういう問題があって2人がケンカをしたんですが、こうして解決しました、と。そういう部分がこのチームの親和力、シナジーを強く築き上げたのかなと思います」

ツアーの裏側を追ったドキュメンタリーでも、公演前に起きたJINとVの間の言い争いを、公演後に7人全員で集まって話し合っている様子が映し出されていたし、過去のメンバー内のケンカを全員が知っていておもしろおかしく話すこともある。BTSは7人で常に民主主義を実践し、「エンパシー」と「アナキズム」を養い続けてきたグループなのだ。

フリースクールの生徒が話したように、彼らにとってBTSは「自分が自分でいられる、大好きな学校」なのだろう。

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「I」を獲得し、「You」を知るロールプレイ

犯罪者や依存症を抱えた人の治療や回復を目指すプログラム「TC(回復共同体)」に注目し、男子刑務所にカメラを入れてその様子を収めたドキュメンタリー映画が、同著では紹介されている。このプログラムの一つに、「ロールプレイ」がある。受刑者たちが輪になって座り、ある受刑者は犯罪者の被害者を演じ、その罪を犯した受刑者に「どうしてあんなことをしたの?」「あれから怖くて眠れなかった」など、役になりきって問いかけるのだ。

そのロールプレイによって、それまで自分の言葉で語ることのなかった受刑者が涙をこぼしながら答えていく様子、そして被害者を演じている受刑者までもが涙ぐむ様子が映画には収められているという。

ロールプレイを経て、厚い仮面をかぶっていた受刑者は自分自身(=「I」)を表出させる。何らかの犯罪の加害者である受刑者が、別の事件の被害者役を演じることで被害者の靴を履く。ロールプレイは「ごっこ」であり、芝居であるが「I(=アナキズム)」を獲得したり、他者(=「You」)の心情を知ったりすること(=エンパシー)に、大いに役立つのである。

これを読んで、あるインタビューでのRMとJIMINの会話を思い出した。「僕らは、歌うときに俳優の役割もするわけですよね」とRM。「そうですね。曲のなかで主人公の役割をするから」とJIMIN。そしてRMがこう続ける。「自分がその立場を経験していなくても想像することができる役があるけれど、共感できないなと思う役もありますよね。だからこそ、僕は歌う人が正確に感情移入できるものを作るのが重要だと思っています。作詞や作曲をする人は、歌う人が、自分の話じゃなくても自分の話のように歌えるようにするのが大切だと思うんです」

楽曲のなかの主人公になって表現することも一種のロールプレイとするならば、楽曲の数だけ彼らはロールプレイを繰り返していることになる。MVなどの映像作品でも、素の自分とは違ったキャラクターを演じている。また、彼らは楽曲の作り手でもあるから、歌う人が入り込みやすい世界観、さらにはそれを聴く人が共感できる世界観を想像するという作業を常に行っている。彼らはこうして、何重にも他者の靴を履きながら、「I」を獲得し、「You」を知るサイクルに身を置いているのだ。

(俳優さんで、たまに「演じた役がなかなか抜けない」と話す人がいるけれど、きっとそれは「エンパシー過多」なのだと思う。他者の靴を履くときに脱いだ自分の靴が、どこにいったかわからなくなってしまうのだろう)

一つ特筆すべき点は、「I」を主語にした言葉で話せるようになるには、自分をさらけ出しても安全だと思える場所が必要だということ。そのような場所を「サンクチュアリ」と呼ぶのだそうだが、BTSにとってのサンクチュアリは、もちろんBTSというグループそのもの。そして、彼らを全面的に肯定し全力で支えるARMYとの絆なのだと思う。

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他者視点を培う「感情労働」

同著のなかに、気になるワードを見つけた。それは「感情労働」という、職業を種別する言葉だ。いわゆるブルーカラーが行う「肉体労働」と、ホワイトカラーが行う「頭脳労働」のほかに、「感情労働」が存在すると語ったのは、アメリカの社会学者なのだとか。

「感情労働」を行うのは主に他者をケアする職業で、例えば看護師、保育士、サービス業従事者、介護に携わる人など。「この人は自分に何をしてほしいのだろう」と、相手の靴を履いて考えることなしにケアの仕事は成立しない。そして、業務のために常に自分の感情を管理することが求められる仕事だと書かれている。

これを見て、アイドルやアーティストと呼ばれる人たちも、広い意味では「感情労働」の従事者と言えるのではないかと思った。

そしてふと、JUNGKOOKのこのコメントを思い出した。「社会で他の人たちと過ごすときには、仕方なくよそゆきの顔になることもある。それは当然のことです。ありのままの自分をさらけ出すことは難しいと思います。誰かと一緒にいるためには、いろんなことを考えて過ごすべきだと思います」

よそゆきの顔。ありのままの自分。そのスイッチを上手に切り替えて、ファンが喜んでくれる姿を見せ続ける。彼らはそういう感情労働を日々当たり前のように行っているのだ。だからこそ、自然とファン視点でものを見る力が養われるのだと思う。

JUNGKOOKが若干23歳でこういうことを考えて、それを言葉にできていることに私はいたく感動し、スマホにメモったほどなのだが、ここからさらに読み取れることは、「自分にも他人にもいろんな面があって当然で、それを上手に使い分けながら人と人とは付き合っていかないといけないよね」と、彼が理解しているということである。これは、先に述べた「民主主義」を健全に保つためにも非常に大切なスタンスだ。

ブレイディ氏は著書のなかで、「自分の行為が他者に与える影響を想像することができなければ、人は平気で傷つけ合い、互いの精神的な健康を損ない合う」「エンパシーの能力なしには、責任ある共同体として社会は機能しない」と書いている。すなわち、世の中に大小巻き起こっているさまざまな諍いや争いはエンパシー能力の欠如に起因していて、皆が他者の靴を履いて考えたり、発言したり、行動したりできれば、不要な諍いや争いはなくなるということだ。

JUNGKOOKの発言は「責任ある共同体」を構築するための、他者との折り合いの付け方の話で、これは、自分の振る舞いが相手にどういう影響を与えるかということに思考を向けられる(=他者の靴を履ける)人にしか言えないことだと思う。

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困難や違いのなかで学び取るもの

ブレイディ氏の名を一躍有名にした『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』というノンフィクションがある。これはイギリスに住むブレイディ氏が、中学校へ入学した一人息子の成長の様子を書いた作品だ。

(この作品のなかに「エンパシー」という言葉が出てきて、それを深掘りしたのが『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』である)

この本に記されているさまざまなエピソードを読むにつけ、ブレイディ氏の息子さんは、ものすごいアナーキック・エンパシーの持ち主なのではないかと感じた。それならばブレイディ氏の息子さんとBTSには、アナーキック・エンパシーを持つ者としての共通点があるはず。それはいったい何だろうと考えた。そこで浮かんだのが、次の3つだった。

1)マイノリティであること
2)多様性のなかで生きていること
3)学びをフィードバックできる相手がいること

1つ目の「マイノリティであること」について。

ブレイディ氏は日本人で、彼女の夫はアイルランド移民の両親を持つイギリス人。いわゆるハーフである息子さんは、小さい頃から母親が通りすがりの人に「チンク(アジア人への蔑称)」などと馬鹿にされるのを見て育った。本人も学校で同級生に「学校にコロナを広めるな」とすれ違いざまに言われるなど、差別的な発言をされたことがあるという。

この彼がノートに走り書きしていた言葉が、本のタイトル「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」なのだとか。イエローは黄色人種のこと、ホワイトは白人のこと。そのどちらでもあるぼくは、「ブルー」なのだと(この表現力!彼はRM並みに感性が素晴らしいと思う……!)。

BTSも、2017年にアメリカ進出をスタートしてから、多くの場面でアジアンヘイトにさらされてきた。けれど彼らはそれに決して屈していない。度々、人種差別に対する抗議の声を上げながら、その実力で、人気で、世界を席巻している。デビューから数年は、「ラップをするアイドル」として韓国のラッパーたちから非難されたこともあった。しかし、ブレることなく努力した結果、今がある。

ブレイディ氏の息子さんもそう。差別的なことを言われても、「すごく不愉快なことがあった」と母親に報告はするものの、なぜそう言われるのか、なぜその人はそういうこと言うのか、どう対処すればいいかを自分の頭でよく考える。そして、毅然と過ごしていくなかで、自分なりの答えを見つけていくのだ。

他人から侮蔑的な目を向けられる経験は、痛みを伴うけれども、一方で誰かの痛みを理解する力に変わる。加えて、自分自身のアイデンティティについて深く考える一端にもなる。マイノリティであることは、「エンパシー」と「アナキズム」を育みやすい一面があるかもしれない。

2つ目の、多様性のなかで生きていることについて。

ブレイディ氏の息子さんが通う学校は、お世辞にも優秀な学校とは言えないところ。いわゆる労働者階級の子が多く、貧しくて新しい制服や毎日のお昼ご飯が買えない子もいる。一方で、裕福な高層団地に住むような子も通っているし、移民の子もたくさんいる。そんななかで彼は、移民の両親を持つ子を侮蔑する同級生と、その子を嫌う同級生の仲を取り持とうとしたり、ボロボロの制服を着ている同級生にリサイクルの制服をあげようとしたり、持ち前の正義感とやさしさで彼なりに行動をするのだ。

また、雪が降る極寒の冬の日、ホームレスを受け入れる教会にブレイディ氏と一緒に足を運んで手伝いをしたり、学校でアフリカ女性の性器切除のことやLGBTについて学んだり。人種、階級、文化、ジェンダーアイデンティティなど、さまざまな「違い」のなかに小さな身を置いて、そこで多くのことを学んでいる。多様性のなかで発生する問題を、落としどころを見つけて解決していく「民主主義」を、彼は日々肌で感じながら成長しているのである。

3つ目の、学びをフィードバックできる相手がいることについて。

BTSがメンバー間であらゆる意見を述べ合って、常に率直に語り合っているように、ブレイディ氏の息子さんにも、母親(=ブレイディさん)という良き話し相手がいる。差別的な発言をされたこと、同級生の間で人種的な諍いが起きていること、貧しい家の子に手を差し伸べたいと考えていること……。「ロールプレイ」のくだりで書いたが、自分の想いを自分の言葉で遠慮なく語れる相手がいることは、「I」を獲得しやすく、「You」を知るのに重要だ。

私は、ホームレス支援のボランティアに行ったときの彼と母親の会話のくだりがすごく好きで、何度も読み返した。抜粋して紹介したい。

「最初は、少し怖かった。正直言って、匂いのきつい人もいたし、なんかちょっと酔っぱらってるのかなって感じの、目つきがうつろな人もいたから」
「うん」
「でもなんか僕、かわいがられちゃった。まだ小学生くらいだと思われたんだろうね、『いい子だね、感心だね』とか言って、こんなのくれた人もいた」
息子はそう言うとポケットから小さなキャンディーの包みを出した。
キャンディーがいっぺんに溶けて変形し、また自然に固まったという感じの、そうとう年季の入った包みのように見えた。
「ホームレスの人から物を貰っちゃったりしてもいいのかな、ふつう逆じゃないのかなってちょっと思ったけど。でも、母ちゃん、これって……善意だよね?」
と息子が言った。
「うん」
「善意は頼りにならないかもしれないけれど、でも、あるよね」
うれしそうに笑っている息子を見ていると、ふとエンパシーという言葉を思い出した。
善意はエンパシーと繋がっている気がしたからだ。一見、感情的なシンパシーのほうが関係がありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た境遇の人々に共感するときには善意は必要ない。
他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな(後略)。

大人でもハッとするようなことを、彼は度々口にする。想いは口に出すことで磨かれるし、話すことで思考が整理されてそこから新たな考えも生まれてくる。そういうことを繰り返しながら、人間は自分について、そして他者について知って成長していくのだと思う。困難や違いから、私たちは目を背けようとしがちだけれど、そこから学べることもある。彼もBTSのメンバーも、想いを語ることで思考を磨いて自己形成をしているのではないだろうか。

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ダンスのできない革命はいらない


「外に目を向ける人は、夢を見る。
内に目を向ける人は、覚醒する」

これは、スイスの精神科医・心理学者、ユングの言葉だ。彼が提唱した「ユング心理学」はあまりにも有名だが、BTSはユング心理学の「心の地図」の概念に着想を得て「MAP OF THE SOUL」というアルバムを発表している。これについては多くのARMYが考察をしているのでそちらにお任せするとして、このユングの言葉に着目したい。

これまで考えてきた「エンパシー」と「アナキズム」に、この言葉はぴったり当てはまるのではないだろうか。

すなわち、
「外に目を向ける人(=エンパシー能力を持つ人)は、夢を見る。
内に目を向ける人(=アナキズムのある人)は、覚醒する。」

また、『これからの時代に求められる「クリエイティブ思考」が身に付く10の習慣(スコット・バリー・カウフマン&キャリン・グレゴワール著)』には、こんなことが書かれている。

「最も素晴らしいひらめきは、外界とわたしたちの内面世界が交差するところで生まれる」

これも、「エンパシー」と「アナキズム」の考え方で翻訳すると、

「最も素晴らしいひらめきは、外界(=エンパシーを働かせた他者の世界)とわたしたちの内面世界(=揺るぎないアナキズムを持った自己)が交差するところで生まれる」

と解釈できる。

夢を見て自らを前に進ませ、自己が覚醒して素晴らしいひらめきを生む。これは、「エンパシー」と「アナキズム」が、彼らの活動のモチベーションや、楽曲制作、パフォーマンスなどのクリエイティブな営みに大きく影響していることを示している。

同著には、「クリエイティブ思考の人は、自分のことを普通の人よりも、よく理解していると思われる。(中略)この能力ゆえに、彼らはあらゆる角度から自己認識できるようにもなる」とある。さらに「自らの多面性を認め、そのまま受け入れる能力こそが、クリエイティブ思考を発揮して、新しい時代を切り開くために欠かせない要素なのである」と書かれている。

「新しい時代を切り開く」

これは、この考察の第1弾で紹介した、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』に記されている、次のエマ・ゴールドマンの言葉に通じるものがある。

「それは、個人主権の哲学だ。それは、社会調和のセオリーである。そして世界を作り変えている、湧き上がる偉大な現存の真実であり、夜明けの先駆けとなるだろう」

また、同著ではもう一つ、エマ・ゴールドマンの言葉が引用されているのだが、私はそれを見て胸を躍らせた。

「ダンスのできない革命はいらない」

ちょっと待って。完全に「Permission to Dance」のことやないかーい!!!

私は関西人でも何でもないのだが、そんなツッコミを一人、大きな声でしてしまった(さらに、めちゃくちゃ興奮してテーブルをバンバンと叩くなどした)。

「Permission to Dance」を聞き、そのとき読み進めていた『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』が頭に浮かんだことがこの考察を書くきっかけだったが、まさかラストの章にこんな言葉が記されているだなんて。「アナーキック・エンパシー」と「Permission to Dance」との結びつきを感じた私の直感は、間違っていなかったのだと確信した。

「ダンスのできない革命はいらない」は、ロシア革命の際、言論の自由や労働者の民主的力が奪われていくことに対して、エマ・ゴールドマンが言ったものだとされている。

混沌とする世の中で物を言えない人たちや、差別や抑圧を受ける人たちが増え、さらにコロナ禍でさまざまなことを我慢して暮らす人が多いなか、「ダンスをするのに許可はいらないよ」と歌うBTS。彼らがこれまでの活動を通して培った、どこまでも強固で揺るぎない「アナキズム」と、思いやりと寛大さにあふれた「エンパシー」能力の結晶「アナーキック・エンパシー」は、彼ら自身のクリエイティビティにつながって、今、世界中の人たちを癒しているのだ。

まさにこれは、革命以外の何ものでもないと、私は思う。

「アナキズム」も「エンパシー」も、彼らは特段意識して伸ばしたり、磨いたりしてはいない。彼らはただ自分の人生を真摯に生き続け、その過程で向き合うことになった人たちの靴を履いたり、脱いだりしながらこれらの能力を手にしていったのだ。

だから、私たちもまずは自分を愛し、自分のために懸命に生きよう。そして長い人生の道すがら、出会う人たちの靴を履いてみよう。そうすることで私たちも、彼らが起こしている革命の一端を担えると信じている。彼らが訴え続けてくれている「LOVE MYSELF」は、やはり、何ものにも代えがたい尊いメッセージなのだ。

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BTSと「アナーキック・エンパシー」シリーズ、これにて終了!!!
noteのコメント欄やTwitterのリプ欄に感想など残していただけたらすごくうれしいです!それを励みに、また彼らについて書いてみたいと思います。



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