表現は見方一つで変わる

私の抽象画は行き当たりばったりです。

表現したい物がこれと言ってあるわけじゃないからなー。
絵描きとしては致命的なのかもしれない…。
でも本当に絵を描くのは好きなんです!。
丸とクネクネを描いて絵が完成した時、自画自賛じゃないけど、「カッコいい!」とか「可愛い」とか自分で思うのです。
その感覚に出会いたいが為に絵を描いています。
なんせ行き当たりばったりなので完成予想図がありません。
自分でも何が出来るのかが分からない。
水に垂らした墨の様にどこでどんな文様を作るか分からないのです。
ですが決定的な違いとして

自分の意志で形を作っていること。

これに尽きると思うのです。
例えば水に垂らした墨の文様を写し取る事は出来ますが文様を自在に100%納得行く形にする事はほぼ不可能だと思います。
私の絵は自分の意志で描きたい形を描き、使いたい色を選び使う。
ほぼ私のエゴ100%で作られた物です。

エゴの表現

このnoteを書いて今気が付いた(今更か!)。
私の表現したい事は私のエゴの塊なんだ!と。
好きな色を選び、好きな形を描き、好きな絵を作って人様に誉められたい!。報酬を得たい。
そうです。欲望の塊なのです。ゲヘヘ。
正直純粋無垢な表現じゃないぜ!。

純粋無垢な表現って表現、みんな好きだよねー(笑)

ここで障害者アートの話をしましょう。
やっぱりまだまだ「純粋無垢な表現」とか「障害者が『頑張って』描いた作品」とかそういう色眼鏡で見られる事が多い今日この頃。
見られる事についてはしょうがない、というか見方の一つとして受け入れられます。
お恥ずかしい話、私も自分が障害者になるまで障害者の方と交流もあまりなかったし、純粋無垢フィルターはかかっていたと思います。
しかし自分が障害者となり、障害者と関わる事により、全然純粋無垢じゃねーぞ!と思うようになりました。
本当に「コイツ、何なん?💢」な人や「頑張って…る?」って感じの人が沢山いて良い意味で「一個人の人間」なんだと感じる事が多々あります。
一個人が『頑張って』描いてるんじゃなくて、日常の延長上に『表現』がある感じ。

では発信する方はどうなのか?

やっぱり一般受けが良いせいか、展覧会を主宰したりする団体や施設が「純粋無垢な表現」とか言ってるのを見ると「えっ?普段からちゃんと関わってる?」っていう穿た物の見方をしてしまう…。汚れちまった悲しみに…。
発信する方が「純粋無垢」とか言っちゃうのが何とも障害者で暗黒騎士の私にはむず痒いと言うか、胡散臭いというか…。
複雑な気持ちになります。
アレです。合コンにきた人が「私(自分)純粋無垢なんです。」とか言い出したら「あっ、頭が残念な人」とか「ギャグセンス皆無」とか「地雷」とかと思ってしまう様な物だと思います。
様するに自分で言うと盛大にスベるんです。「純粋無垢」。

日常の延長上に表現があるのをもっと伝えたい。

私はパッと見パーリィピーポーおばさんです。
多分言わなきゃ障害があると思われない。
しかし自分が障害者で絵を描いているアールブリュットアーティスト(自称)しているのは障害者は身近にいて表現は日常の延長だよと伝えたいからなのでは?。
と最もらしい理由をつけました。
後付けです。半ば嘘です。すみません。
でも伝えたいのは本当です。
どこからが「表現」なのか、どこからが「問題行動」なのか。
私で言うと仕事もしないで絵を描いているのは「表現」なのか「問題行動」なのか。
枠に当てはめた時にどっちかに転びます。
そんなに白黒はっきりしなくても日常の延長上の表現が人を傷つけたり、自分を傷つけたりしなくてなおかつ本人が楽しければいいんじゃないかなと。
そしてそれを面白いとかすごい!とか感じられる視野は人生には必要なんじゃないかなと思います。


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