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何気ない毎日を支えてくれた「シンクロのシティ」との縁

note の投稿1回目は、TOKYO FM で平日午後にオンエアされ、2019年9月末で放送終了した「シンクロのシティ」の話を書くことにした。関東ローカルの番組ながら radiko プレミアムで滋賀から聴いていたのだけど、いつかどこかで同じ気持ちを持っている人たちに届けばいいなと思って。


たまたま聞こえてきた「シンクロのシティ」が今の自分のスタイルを作ってくれた

そもそもこの番組を知ったのは東京で過ごした2012年正月の帰り、首都高の車中だった。

たまたま TOKYO FM をつけていたところ聴こえてきた□□□(クチロロ)の「Tokyo」とそれをシームレスに被せたパーソナリティ堀内貴之さんのオープニングトーク。これまで聴いたことのなかった「風通しのよい大人の心地よさ」みたいなものを感じ取り、そこからこの番組に興味を持ち始めたのを覚えている。当時まだ radiko プレミアムは始まってなかったのだけど、使っていたモバイル Wi-Fi が悪さしていたのか偶然滋賀でも TOKYO FM を聴くことができた。それ以来ちょくちょく無意識にこの番組を聴くようになった。

自分がこの番組との繋がりを意識しだすようになったのは、2013年の春に起こった身のまわりのトラブルがきっかけだった。当時の自分はとにかく喧嘩が多く、それが災いして起きた色々な揉め事から色々なものを失い、自暴自棄になりかけた時期だった。

もう駄目かもしれないと思っていたとき、radiko から聴こえてきた堀内さんの、それでも気楽に笑顔で前を向こうとするポジティブな佇まいに、「自分もこういう姿勢・価値観で生きていければ、きっと色々なことが楽になる」と思えるようになった。それを契機に一度全てをリセットすることにし、新しい自分の仕事のスタイルを作ることにした。その結果色んなことが前に進み、新しい仕事もたくさん請けられるようになった。

「東京の声とシンクロする」ということ

この番組のメインコーナー「Voice of Tokyo」は、「ボイス収集隊」と称した番組スタッフがボイスレコーダーを持って街へ繰り出し、日々のテーマに関する様々な人の声を録り、彼らによって集められた様々な街の声をパーソナリティ堀内さん独自の編集を通じて共有し、みんなで受けとめあうというものだ。

番組オープニングの口上が、この番組の趣旨を端的に説明してくれている。

ここにあるのはただ、東京に暮らす、今を生きる人たちの声。顔も見えない、名前も知らない彼らの口から出てくる言葉、それはまだ作られていないストーリーの種。
その未完成なストーリーの残りを紡ぐのは、このラジオを聴いているあなた。声を聴いて、想像して、自分に重ね合わせる。
そこに生まれる共感。知らない誰かとシンクロする。

取り上げられるテーマは他愛もないものから現代社会に切り込みそうなものまで、実に様々だった。

「福袋、買ったんですか?」「週何日飲んでますか?」というありふれたなテーマもあれば、「今一度、仕事と髭について考えてみる回」「"あいさつができない"と言われる若い世代のホンネ!」「炎上時代に思うこと」と深夜のディープなトークラジオで取り扱われそうなテーマも。

「夜のコインランドリーで聞きました!ちょっとお話しませんか」「インターナショナルスクールに通う学生から見た今の日本」など、現場へ行かないと成立しないこの番組ならではのテーマもあったり、「ご近所付き合い」など数年おきに同じテーマを扱って街の声を定点観察することもあった。

。。。でも普通に考えたら、見ず知らずの人にいきなりマイクを向けてこんなプライベートな話やセンシティブな話を聞き出すって、途轍もなくハートの筋肉の要る、大変なことだと思う。リスナー自ら望んでメールを送る形ではないから、マイクを向ける側が相手のことを掘り下げられない限り情報も出てこないし。でもそこに番組の価値を見出していたからこそ、大変なことを承知で9年間やってきたのだろうと思う。

ボイス収集隊について自分が凄いなと思ったのは、外国人観光客に「東京で何を買いましたか?」と聞き出した回だった。ただでさえ大変なところに「外国語を使わない」という高度な枷を設けてボイスを録ることをしていたのだけど、笑顔と前向きな気持ちを盾にその場で工夫しながら理解しあって声を引き出していて、ラジオなのにその映像が鮮明に見えてきて感動すらした。

ボイス収集隊のインスタを見ていても、大変ながらも本当に楽しそうにやっていたのが伝わる。見ず知らずの人を好きになろうとして、笑顔をもってその人のことを知ろうとする。こういったボイス収集隊の人たちになら喜んで話しかけられたいと思ったし、こういうスキルを身に付けられたらきっとどんな仕事も楽しくなりそうだなと思った。

スタッフさん曰くオンエアに乗るボイスは別に厳選しているわけではなく、ほぼ採用されているらしい。いわば無作為抽出された街の声の集まりが堀内さんのフィルターやそのコンテクストにあった音楽の繋がりによって纏まっていく。でもその日のテーマの結論めいたものは決して番組では示さず、最終的な受けとめ方はリスナー個々に委ねられ、ほわぁっとした余韻のなかで約40分(スペイン坂時代は確かコーナー跨ぎで1時間半程度)のコーナーが終わっていく。

自分の仕事に絡むようなテーマが取り上げられた日などは張り切って「参考にしよう、何なら仕事の復命にしよう」というぐらいの気持ちで聴くのだけど、別に論点を網羅したりジャーナリスティックに攻める趣旨の番組でもないため、番組の全容が明確に記憶に残るようなことは殆どなく、何となく視野が明るく広がるというか「こういう気持ちで臨んだら楽しそうだな」という感覚だけがいつも残っていて。

ハッキリしないあの空気を苦手に思う人もいたのだろうけど、あの絶妙なライトさによって僕たちは東京の声とシンクロすることができたのだろうし、そこに救われていたんじゃないかと思う。

番組で読まれるリスナーからのメールは街の声の「ストーリーの残りを紡ぐ」役割として、また街の声だけでは聴こえなかった新しい視点として紹介される。ラジオは「パーソナリティとスタッフとリスナーと自分」という4つの顔が見えるメディアだと思っているのだけど、この番組はそこに「街の声」が加わることで、ラジオ特有の内輪感が薄れているというか、それが僕にとっては何より居心地が良かったのだ。

堀内さんはそんな「Voice of Tokyo」を「ラジオの王道だ」と番組のなかで語っている。この番組はカフェや電車の隣席から聞こえてくるような声のボリュームつまみをほんの少し上げて、その場にいる人たちの時々の気持ちになんとなく共感しあう温かい空間づくりを、東京という大きなフィールドでやっていたのだ。それが東京に住む人たちに跳ね返ることで「東京っていい街だよね」と思いあえたのだろう。

サテライトスタジオで作られた、フラットで温かい関係

この番組は放送9年間のうち半分ほどは誰でも観覧可能なサテライトスタジオで放送されていた。初期は旧渋谷パルコ1階の道路沿いに併設されていた「渋谷スペイン坂スタジオ」、(間に半蔵門の TOKYO FM 本社スタジオ「アースギャラリー」を挟んで)後期は数寄屋橋交差点に期間限定でできた屋外の「銀座ソニーパークスタジオ」と、いずれのスタジオもリスナーとパーソナリティとの距離が近いのが魅力だった。

初めて番組を観に行ったのは2016年1月。この時期は「リスナー感謝祭」と題して観覧に来た人のなかから1名リスナーDJとなって渋谷スペイン坂スタジオで堀内さんと共演できるみたいな企画をやっていた。

この時はたまたま私用で東京に滞在していて、また当時はサイレントリスナーだったこともあってただちらっと寄ってみようという気持ちぐらいしかなかったのだけど、いざ行ってみたら思いの外、スペイン坂に集まったリスナーさんらと「いつも観に来てるんですか」「どこから来たんですか」「え、滋賀から!」などと話しあって仲良くなって、ワイワイしているうちに堀内さんもスタジオから出てきて「これスタッフが取材のお土産で買ってきたんだけど、みんなで食べよう」とこの日のテーマになっていた門前仲町のお菓子をもらったり、リスナーさんらもこれに呼応して「久しぶりです、今日は子ども連れてきました」「これ差し入れです、みんなにどうぞ」「おお、元気ー?」みたいな会話でさらにワイワイして。番組終了後はリスナーの人たちが門前仲町で飲みに行くことになったり、一方で自分は堀内さんやコアリスナーさんらと軽く「ミッケラー東京」という素敵なクラフトビールのお店へ飲みに行くことになったり。

滋賀にも大津に地元FM局のサテライトスタジオがあって(スペイン坂スタジオを作った人が作ったらしい)、何度かふらっと番組を観覧したことはあるのだけど、スタジオの外でここまでリスナーどうしがリアルタイムに盛り上がってコミュニティ化する場って見たことがなく、ちょっと感動してしまった。

それから2ヶ月後の3月、また東京へ行く機会ができたので、あの温かい空気をもう一度味わいたいと思い再びスペイン坂スタジオへ顔を出したら、今度は堀内さんから「おお、前にリスナーDJで来た人が滋賀出身と言ってたから君のこと番組で話したよ!」と声をかけてくれたり、前回にも会ったリスナーさんたちから「来週(リスナー感謝祭の最終回)も来るんですよね?」と嗾けられたり。本当は行く予定がなかったのだけど結局次の週もこのためだけに無理して行ったら番組の終盤、堀内さんがスタジオから声をかけてくれて1分ほど番組に出させてもらい。。。

その後2018年拠点が銀座ソニーパークスタジオに移ってからも、スタジオが醸し出す温かさは渋谷スペイン坂スタジオ時代と変わらず、むしろより多世代・多文化の交流が生まれている感じだった。スペイン坂は渋谷の裏道のような場所だったけど、人通りの多い数寄屋橋にはまた違うコンテクストをもった人たちがいる。番組を見ていたらおばあちゃんに道案内を求められたり、外国人観光客が東京の街の一部としてスタジオの様子をカメラで撮っていたり。

スペイン坂の時よりも観覧リスナーとの距離が近いのか、オンエア上もスタジオ周辺にいる人たちの声が頻繁に乗るようになった。この番組はスタジオの窓も開放して放送しているからか、放送中パーソナリティに声をかける人たちもいて、堀内さんも「ハナコマチがコラボレーションし、、、あ、こんにちはー」と台本を読みながらも笑顔で返す、その様子が放送上に乗っかるというのがまた温かくて好きだった。

ちなみにこの番組をしばらく聴いていると、そんな空間を支えるコアリスナーの人たちの存在に気づく。毎回のテーマをリスナーどうしで考えてまとめてスタッフに案を送っていたり、番組のプレゼントまで作っていたそうで。最終回後のフェアウェルパーティーも「#tfmcity」と書かれた黒地のシャツをみんなで着ていて、彼らが裏方となって手伝っていたことを知ったときは驚いた。

リスナーもスタッフもパーソナリティも街の人も、みんなが垣根をつくらない関係でいるのが素敵で、きっとそんなスタジオ周辺で作られていた街のフラットな関係が、番組を通じて醸し出されていた温かい空気を形成していたのだろうと思う。

二人が見せてくれた、素敵な大人の佇まいと肯定力

そんな空間のいわばファシリテーターだった堀内さんは、僕たちリスナーにとっての先輩というか「アニキ」的な存在でいた。

そしてこの番組にはMIOさんというもう一人のパーソナリティがいた。堀内さんと僕らリスナーとの間に立ってくれる存在でいてくれて、それでも弱音を吐きたい僕たちの声と堀内さんの声との距離が遠くなりそうなときに、彼女自身の素直な気持ちをぶつけることで僕たちを近づけてくれていた。

堀内さんが前向きな大人の佇まいを示してくれるアニキなら、MIOさんは優しい大人の佇まいを示してくれるお姉さんというか。そんな二人はどんな声も受けとめ、それによって共感の生まれる空間を作り出してくれていた。

僕は2001年に糸井重里さんが書いた「インターネット的」という本に書かれてあることを今でも大切にしているのだけど、この本が示す「リンク・フラット・シェア」な社会に欠かせないのは、そんな堀内さんとMIOさんが体現していた、どんな声も受けとめあえる「肯定力」であり、それによってこそ形成されるコミュニティの「共感力」なのだろうと思う。いわゆるネットリンチや消耗するコンテンツが蔓延してしまっているような今日のインターネットよりも、もしかするとこのラジオ番組は「インターネット的」だったのかもしれない。

最終回で改めて感じた、ラジオと音楽との関係、そして縁

2019年9月26日の最終回は、この目で最後の放送を見たいという気持ちと、どうしても堀内さんに感謝の声を伝えたいという気持ちで、日帰りで数寄屋橋の銀座ソニーパークスタジオに行った。そこには大勢のリスナーが集まっていた。

最終回は映画でいうところの「エンドロール」という設定でスタッフが総出演し、これまでみんなが作ってきた番組への色んな気持ち、この番組で各々が学んだ色んなことを、「泣いたら退場」という枷をつけて振り返りあっていた。

スタッフ一人ずつスタジオに入り、堀内さんとMIOさんと話をしては笑って泣いて、「退場ー!」と笛を吹かれて次のスタッフに入れ替わるときには過去の放送でここという時に流れていた音楽がかかり、スタッフがスタジオから出ると今度はリスナーみんなが笑顔で拍手する。そんな大団円の最終回だった。

全ての言葉が長年のリスナーには胸に刺さるエンドロールだったのだけど、その中でも前田さんというプロデューサー兼チーフディレクターの人と堀内さんとの話が面白かった。

目指したのはもちろんテーマの設定もそうなんだけど、選曲だよね。今日だって答えがなくて、ずっと悩みながらやってるんですよね。それがなんで悩むかというと、、、もちろん答えがないのは当たり前なんだけど、その前に喋っていた人の街の声に曲が続いて、それがハマった時の気持ちよさって、もう計り知れないものがあるでしょ。それはラジオのマジックだと思うんですけど、そこに如何に近づけるかということを、俺と堀内はずっと考察してきた9年間だと思うんだよね。それって答えがないからこそ面白くて。
(中略)あと TOKYO FM のなかでは結構異質の番組というかね。難しい曲ばっかりかかってたじゃん、みんな知らない曲とかがかかってて。「LOVE CONNECTION」 (同局の昼のワイド番組)とかも担当させてもらってるんだけども、米津玄師がかかってる中で、「シンクロ」だけ飛び抜けて異質の音楽がかかってると。それでもその音楽が届けられるように、刺さるようにかかるにはどうしたらいいかということを模索しながらやってた9年間ですね。(中略)それが皆さんの心に届いていたらすごく嬉しいなと思います。

共感された声や雰囲気をコンテクストにして音楽を重ねるからこそ、その音楽が新しい景色を僕たちの視界に映す。「シンクロ」が映し続けてくれたその景色は本当に格別だった。

番組終了の発表があった9月2日の放送で、最終回終了後のフェアウェルパーティーのお知らせがあった。このとき自分はちょうど気持ちがズタズタになっていて、実は外に出るのも辛くパーティーに行くなんてとても考える余地すらない状態だったのだけど。。。でも堀内さんが「9月26日のパーティー、まだ間に合いますから、みなさん来てください!」と言ったタイミングで流れてきたのが思い出野郎Aチームの「ダンスに間に合う」だった。

涙が出た。きっとこの選曲は終了を惜しむシンクロリスナーに向けたものだったのだろうけど、その上にたまたま自分の気持ちが重なって、真っ暗だった景色が少し明るく見えたのだった。前田さんのようなスタッフとパーソナリティとの阿吽の息によって、この番組はそんな「マジック」を何度もつくってくれていた。

番組中に流れる楽曲はもとより、「シンクロ」のオープニングテーマだった□□□の「Tokyo」はそういう番組のコンテクストも相重なってか、特に自分の毎日の調子をつくってくれる大事な一曲になった。今でもさぁ仕事を始めるぞという時は「Tokyo」(シンクロのシティバージョン)を必ず聴いているぐらいだ。

最終回終了後のフェアウェルパーティーで□□□の三浦さんにそんな話ができたのは嬉しかった。エスカルゴマイルスやD.W.ニコルズのエンディング曲も、すっかり自分の何気ない毎日の支えになってくれた。

最終回のラストでは森田さんという TOKYO FM の執行役員(当時)が出演し、この「Tokyo」がオープニングテーマに採用されたきっかけを話してくれて、、、というか番組最後に局の偉いさんが出てくるって「笑っていいとも」以来じゃないのとか思っていたんだけど、話を聴いているとどうやら堀内さんがラジオに関わったきっかけを作った人なのだという。そして堀内さんが「シンクロ」を終えたこの数日後、彼もまた執行役員を退任したみたいで。きっとそういう意味合いをもっての出演だったのだろう。

本当に人生とは「縁」でつくられているのだと思う。自分も本格的にラジオを聴き始めたきっかけは20年以上前に放送されていた TOKYO FM(JFN)「赤坂泰彦のミリオンナイツ」で、あの時の赤坂の「ラジオマジック」がなかったら、きっとここまで音楽にハマってなかっただろうし、今こうして「シンクロ」も聴いてなか、、、あれ、そういえばあの時ミリオンナイツで赤坂がよく口にしてたディレクターの「森田」って。。。


放送初期のエンディングで毎回MIOさんが「シンクロのシティは街の声とともに戻ってきます」と言っていたのが僕は大好きで、あの言葉によって街の灯がともっていくような気がしていた。

そんな「シンクロのシティ」は、滋賀に暮らしていながらも僕の毎日を支え続け、育ててくれた番組だった。いつかまた「街の声とともに戻って」きてほしいという気持ちも正直どこか残っているのだけど、この番組との縁を忘れず大切に、また新しい一歩を踏み出していけたらと思う。

余談

最終回が終わった後、東急プラザ銀座の屋上で開催されたフェアウェルパーティーで、スペイン坂のとき知り合った数名のシンクロリスナーが僕のこと覚えてくれていて声かけてくれたのすごく嬉しかったし、その後銀座ソニーパークスタジオに戻って、夜の銀座数寄屋橋交差点をバックにオンエアした電波に乗っからないラジオショーも本当に本当に素敵で、東京という街が改めて好きになった。