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毎朝ドリップ#039 2024.10.30 自分とかない/インパラの夢

「毎朝ドリップ」というこのシリーズは、半年前、休職期間に入ったときに、「何かを書け」というインスピレーションに背中を押され、「毎日じゃなくてもいいけど、文章という形で何かをアウトプットしよう」と思って始めた。

基本的に家に引きこもっており、「頭が痛い」「身体が怠い」「何もしたくない」という状態で床に転がっている状況だったので、特にインプットがなく、毎朝淹れているコーヒーのことくらいしか、書くことがなかった。

それに、当時はコーヒーひとつ淹れるのにも、手順を変えたり、比率を変えたり、温度を変えたり、色々と試行錯誤をしていて、ベストなコーヒーを淹れるために、自分のために何かしらの形で取りまとめたいなあとも、思っていた。

だから、「毎朝ドリップ」と題して、毎朝の色々な試行錯誤の記録として、noteに綴ることにした。

でもこの半年で、4:6メソッドに出会って、毎朝それでコーヒーを淹れて美味しく飲んでいるからそれ以上の工夫もなく、当初の目的だった「毎朝の色々な試行錯誤の記録」が体を成さなくなってきた。

無理してコーヒーの話を書くのも意味わからんが、文章を書くことは好きだしアウトプットは続けたいので、どうしようかなあと思っている。


「インスピレーションに背中を押されて」という言い方をしたのだけど、実際そういうことがよくある。

「インスピレーション」という言葉が正しいのか分からないけど、生活をしている中で、とあるキーワードが繰り返し繰り返し立ち上ってくる経験。

当時は、何をしていても「文章を書く」「アウトプットする」という意味の言葉に、毎日毎日直面していた。

電車に乗るとそういう広告をみかける。友人と話していてそういうワードが出る。タロットをめくると「書く」のカードが出る。YouTubeでそういう動画がオススメに挙がってくる。テレビでコメンテーターがそういう話をしている。

「得体のしれない何か」に、「何でもいいから書け」と言われている気がして、文章を書くことにした。

「得体のしれない何か」

今、その「得体のしれない何か」から、「東洋哲学!!!」と言われている。

とにかく東洋哲学の話が常に立ち上ってくる。
電車の広告で。友人との会話で。テレビのコメントで。Instagramで流れてくる歌の切り抜きで。

全然関係ない、エルフというコンビのYouTubeを観ていたら、ある回で、コラボしている小藪さんから、東洋哲学の話が出てきた。
ここでもですか。
そんなにですか。

で、この間本屋さんに行ったら、しんめいPさんの「自分とか、ないから 教養としての東洋哲学」が大々的に売り出されていたので、とりあえず手に取って、2日かけて読んだ。

よくわからん。

よくわからんかった。
よくわからんかったが、エッセンスとしては取り込めた気がする。


「無我」
突き詰めると「自分」なんてものは存在しない。存在しないというより、「何が自分なのか」定義できない。この世のすべては繋がっており、常に変化している。「変わらずここにいる自分」なんていうものは、妄想である。

「この世はフィクション」
この世界は「言葉」が生み出す虚構であり、この世の本質は「 」。空(くう)。言葉に出来ないもの。フィクションを取り払った先では「境界」がなくなり、すべてのものは関係性でのみつながっている。

この世がフィクションなら、自分という存在もまたフィクション。
そんなものは存在しない。
全ては繋がっているので、あなたも私も、等しくみな「宇宙」であり、一即多、多即一。1は全であり、全は1である。ハガレンか?

みんな何かに、「自分」に、そういう「役」に、なりきっているだけ。

「自分」なんてものは存在しないことを知り、「役」を手放し、「まあいっか」と力を抜いて、何物でもない「ありのまま」でいるとき、そこには「比較」が存在しないので、当然争いや戦いが存在せず、敵もいなくなる。
つまり敵無し。無敵。

筆者の意味するところと一致しているかどうかは知りようもないが、大体そんなようなことを感じた。


この本を読みながら、大昔に知った、以下の話を思い出していた。

「肉体」は厳密には存在せず、原子だか電子だか素粒子だか知らんが、とにかくめちゃくちゃ小さい何かの、「密度が濃い」部分なだけ。

超ミクロの世界で見ると、「外の世界」と「自分の肉体」は常に流動的であり、めちゃくちゃ小さい何かが「出たり入ったり」しているらしい。

つまり「境界がない」。

これを知ったのがどれくらい昔なのかもはや覚えていないが、驚愕したことを覚えている。それまでの価値観が完全に吹き飛んだ感覚だった。

大昔なので正しく理解していなかったかもしれないし、間違って解釈しているかもしれないけど、東洋哲学と科学が同じことを言っているのかと思うと、ちょっと不思議な気持ちになる。


「自分がちょうちょの夢を見ているのか、この世界がちょうちょの夢なのか、わかんなくなっちゃった」

本の中で、しんめいPさんが、荘子の言葉を紹介するときに使っていた表現。
これを読んだときにふと、町田メロメさんという漫画家/イラストレーターの「三拍子の娘」という漫画の一幕を思い出した。

主人公「折原すみ」が、仕事相手とこんな会話をする。

「楽観的ですよね、折原さんって」
「私が楽観的なのって…夢だと思ってるからですかね、この人生を」
「夢?誰のですか?」
「いや誰のってことはないんですけど、例えば…」

「サバンナで眠ってるインパラの夢とか…」

サバンナで眠ってるインパラの夢!

町田メロメさんも「ちょうちょの夢」のエピソードをご存知だったのかもしれない。
とにかく「ちょうちょの夢」の話を読んだとき、「インパラの夢だ!!!!」と思ってテンションがブチ上がった。

映画「マトリックス」の世界でも、コンピューターが作った仮想世界を現実だと思って生きている、という大前提のもと話が進んでいく。
ここにも、同種の考え方があるのかもしれない。

菅浩江さんの小説「雨の檻」では、絶滅してしまった世界で、主人公は偽の風景を見ながら生きている。捉え方によっては、これも「ちょうちょの夢」っぽいかもしれない。

自然と同じように感じている人が、きっとこの世にはたくさんいるんだろうね。


「もしかしたら、楽になるヒントがここにはあるかも」と、少なからず期待をしてこの本を手に取ったのだけど、1周読んだくらいでは、そして今の私の状態では、すべてを理解することはできなそう。

でも、何かつらいことがあったときに、「これもフィクションなんだよなあ」と、思ってみることにする。
そのうちに、何かに気付いて、「悟る」かもしれないしね。

かしこ。

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