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シナプス模様

きのうはよく泣いたので一日中眠かった。クリスマス前からの大変な数日間が終わったけれど、生きるはつづく。

とつとつ と、相槌は求めないで 実家の母を相手にじぶんの気もちや脳を整理した日だった。
生きるって面倒だ、って思う。久しぶりに口にしたけど、今回は同意を得られなかった。

人生について口を出されがちな年齢になって、そういう渦にのまれる事がすごく苦手なわたしは自衛のために(言葉や色や持論を使った)攻撃力を上げる。脱け出せない時期なのかなと思いながらやりきれなくなった。

進学校通いで高校3年生になったとき「どこの大学行くの?」と聞かれるのが苦手だった。たとえばその時とそっくりな心持ち。この先どうするの?じゃなくて なにかを決めつけられた範囲での質問が。(学校内の場合はまだわかるが社会に出てもこんな日が来るなんて)

そしてその質問をした相手にとってその事はそれほどに大事じゃない場合がほとんど。それがどうしたんだろう、わたしはいまどこに居るんだろう。ただの雑談ならあなたの好きなものの話をしようよ。

言葉にするのはむつかしいけれど訓練のようにつづける。目をつむって、人それぞれの持った枝の先の話をすると 言葉にあわせて頭のなかにするすると模様が浮かんだ。枝先でひと筋の流れがぱちっと行き止まって、指を開くみたいに見えた。シナプスの絵と似ていた。

遠回りしながらじぶんのしっぽを追いかけるようなこと。さわれない光の温度をスケッチするようなこと。ことばを慎重に選ぶときに一緒に涙が流れた。人体って、単純なしくみではないと思う。運よく死なないでここまで生きてこられたけれど、いつもわたしの涙のふしぎは そのふしぎと並ぶくらいな気もちがする。たどって来た生活を遡れば、根がふかくそこにある。

はなし続けるほど、むつかしくなって、涙がでて、ぐずぐずになって。眠気に襲われて、つらくなって、おだやかになって、そのまま眠った。

マインドが繊細だから 鍛えなきゃなんてそんな事、意識するほど反対に脆くなって 立っていられなくなるような気がする。理論のままに、理解したように、言葉通りに、出来ない事ってあるよ。

じぶんの家へ帰るとき、あまいケーキをふたつ買った。翌日のわたしのための甘味。話してみたって、答えなんて出ないことばっかり。生きるは死ぬまでつづいて、それは面倒で、でも今、まぁまぁ好き。

楽しみはたくさんあって、好きな人もたくさんいて、未来のどこかまでそれ達とゆける、その面白み。そこを見ているしか術がない。

気もちの掃除は時期にかかわらずときどき必要なもの。すみっこからあつめて掃きためるみたいな、でも それはごみとは言い切れないよな。

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