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架空の日曜日

夢の中で雨の音がしていた。また複雑な夢を見た気がするけれど、起きたそばからするする忘れてゆく。窓際のワンピースとバイオリン、ラジオ体操と郵便物。

嘘と本当ってなんだろう、最近よく考えていること。たとえばここに私がいま書いてゆくこと、嘘だよって書かなければ、目にした人は現実のこととして見るんだろうなぁとか。嘘だっていいながら本当を書いたっていいこととか。今日までに書いてきた文字や日記だって、本当にあったことだとも 嘘だとも 大きく書いてはいない。それがわかるのは経験した本人だけだろうし、でも経験した事実だってたぶん少しずつ忘れてゆくし。

個人的な発信の方法が大きく開かれている今、目にするもの全部を鵜呑みにすることはこわいね。関わる人数が多いぶん、わかりやすい悪意のあるなしに関係なく、出来心や罠や創作がどこかで混ざってしまっているかもしれない。そういうの、日常生活でならわざと混ぜることもあるくらいだ。伝えたいことを伝わりやすいようにと考えて表現をあやまることだってあると思う。むむ...むつかしい。あと伝言ゲームは、生身の人とする方が間違いがすくないね。

ウイルスとの戦いが長い今年。常に色々起こる毎日に加えての騒動なものだからみんなのストレスはとても多い。インドアが好みな私は楽しみをたくさん持っているけれど、それでもなんともツラい。好きな人たちになかなか会えない。広めのお部屋にひとりくらし。ふと、自然と 自分と向き合う時間がぽわんと生まれて、私は対面する世界のオリジナル感を再認識してしまった。ごぉんと打ちのめされた。

自分の歩いてきた道が自分だけのものだったこと。たとえばどんなにルートの決められた道だったとしても、その上を実際に通っている体は自分ひとりで、どんなものから影響を受けて出来上がった考え方であっても、自分の考えには違いないということ。自分の責任は自分にあるということ。

いつも外側から見えない歴史ばかり。誰にも色々な日があったのだと思う。表側からわかることはとても少なくて、知ったとしても、想像したとしてもそれは自分のものにはならなくて、自分ならこうだ、って外側から考えてみても、それは今の自分だから持つ考え方であって、やっぱり外側の意見には変わりない。反対側から見たってそうで、私にもあてはまるオリジナル感。

どんなことがあったって毎日は流れて、起こったことは起こったままで、折り合いをつけたり呑まれたりして、なんとかここにいる。それが人数分の世の中なのだなぁ。たとえば私は子どもの頃からテレビで見たニュースが幾つも頭を離れなくて苦しんでいたけれど、そのニュースのなかにいた人にはその景色が画面ではなく現実に繋がっていて、終わっていなければ今だって続いていて。その出来事と関係していた人がいま目の前に現れたとしても私は気がつけないと思うし、その相手に私のそんな過去は見えないだろう。ニュースになる出来事の外側にも社会は世界は果てしなく続いているし、目に映るもののなにが、どこまでが本当のものかはわからない。現実ってすごくふわふわしている。明日には世界はなくなるかもしれないといつも思う。(そしてそう思ったことが何度めか、綴るのが何度めか忘れて、いつも何度でも書く。)

でも、15才からは生きないと思っていた私もそこからもう10年以上生きていて、これはどうにかこうにか繋げてきた時間。いろんな人に助けられて繋がってきた。紛れもなく、まぐれに違いないけど、毎日は楽しくて、かなしくて、さびしくて、つらくて、幸せで、浮かれてる。

人の歴史は大事だし、おおごとだ。今そばにある人間関係はうっかり繋がったものかもしれないけれど、途切れてしまうまでしっかり握っていたいし、大切にしていきたいと思う。血の繋がった人と会話していても なぜこの人と話しているんだろう、ってふと我に返るような瞬間さえあるくらい、オリジナルな時間への疑いもあるけれど、べつに偽物じゃないんだろう。やっぱり毎日は偶然でしかないなって思いながら、死ぬまでいきるんだと思う。そして私や相手がどんな思いでいて、どんな昔を持っていながら対面したとしても、時間はそこに流れていくね。たぷたぷと、とぅるとぅると。好きなことを抱きしめながら、私もその流れに浸って流れてゆきたい。

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