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4.結果 4-3. 実地調査および文献調査結果(八勝館御幸の間)

今回の論文作成のメインである実地調査と文献調査の結果です。旧川上貞奴別荘(萬松園)に続いて八勝館御幸の間についてです。こちらも、実地調査は、論文作成にあたりご指導いただいた森先生にもご同行いただきました。

4-3-4.八勝館御幸の間実地調査結果です。御幸の間の部屋の配置は巻末図15の通りである。室内装飾織物は9箇所に地色・文様の異なる12種類が使用されている。使用箇所、染織の特徴、加飾技法、地色、文様、材質、その他についての調査結果は次の通りである。一覧を表7,8に示す。

表7_八勝館御幸の間箇所別室内装飾織物一覧
(写真撮影 7のみ森理恵教授 その他は筆者)


表7_八勝館御幸の間箇所別室内装飾織物色・文様一覧
(表のセルの色は更紗の地色、○印は文様の該当を示す)

4-3-4-1.付書院地袋

床の左側に付書院がある。書院の卓板の下段側に地袋がある。地袋の小襖に2種類の地色と模様が異なる更紗が貼られている。上は赤地ボーダー幾何形の印金更紗、下は青緑地幾何形の印金(截金)更紗である(巻末図16,17)。 

4-3-4-2.床の間地袋

床の右側の下地窓の下に地袋がある。地袋の小襖に茶色地ボーダー幾何形花(撫子)/パダン[1]菱格子模様幾何形小花チュブロック[2]の印金更紗が貼られている(巻末図21,22)。
[1] 更紗の腰巻、胸布などで主体となる模様があらわされた区画。
[2] 更紗の格子、菱格子、亀甲繋ぎ、七宝繋ぎなどを基本とする連続模様の総称。 

4-3-4-3.床脇天袋

床右側の脇には地袋から90度回転した方向に天袋がある。床脇天袋の小襖には2種類の地色と模様が異なる更紗が貼られている。赤地ボーダー幾何形の印金更紗である。前述の付書院地袋の上部と同じ裂である。下部は茶色地パダン菱格子模様幾何形小花チュブロックの印金更紗である。前述の床の間地袋と同じ裂である(巻末図23,24)。 

4-3-4-4.大襖の表

座敷と次の間の間には通常の半間サイズより幅広の大襖がある。座敷側から見た方を表とする。大襖の表には1種類の更紗を切ってパッチワーク状に再構成した織物が貼られている。もとの更紗については、4-4-1-1.堀口捨己作品・家と庭の空間構成の項で後述するが一枚の裂を使用している。藍と紫の絞染のある唐草模様の印金(截金)更紗を張っている(巻末図23,25)。 

4-3-4-5.大襖の裏

大襖を次の間から見た方を裏とする。大襖の裏には上部・中央部・下部に2種類の細長い帯状の更紗が貼られている。上部は青緑地ボーダー唐草模様の印金(截金)更紗である。前述の付書院の地袋の下部の裂と同じである。中央部と下部は赤地ボーター幾何形である。前述の付書院地袋上部、床脇天袋上部と同じ裂である(巻末図18,19)。 

4-3-4-6.欄間の表

座敷と次の間の間の大襖の上に欄間がある。大襖同様に座敷側から見た方を表とする。欄間の表には種類の地色と模様が異なる更紗が貼られている。上部は青緑地ボーダー唐草模様の印金(截金)更紗である。前述の付書院地袋下部、大襖裏の上部と同じである。下部は赤地ボーター幾何形の印金更紗である。前述の付書院地袋上部、床脇天袋上部、大襖裏の中央部・下部と同じである(巻末図23,26)。 

4-3-4-7.欄間の裏

欄間の裏には赤地ボーター幾何形の印金更紗が貼られている。前述の付書院地袋上部、床脇天袋上部、大襖裏の中央部・下部と同じである(巻末図18,20)。 

4-3-4-8.襖

次の間の襖には5種類の地色と模様が異なる印金更紗が貼られている。図の①と⑩は赤地ボーター幾何形の印金更紗が貼られている。前述の付書院地袋上部、床脇天袋上部、大襖裏の中央部・下部、欄間の裏と同じである。②と⑥は濃緑地パダン菱幾何形(花)チュブロック、③と⑦は赤地パダン菱幾何形(花)チュブロック、④と⑧は濃緑地パダン幾何形チュブロック、⑤と⑨は赤地パダン菱幾何形チュブロックである(巻末図27,28-1,28-2)。  

4-3-4-9.屏風

6種類の地色と模様が異なる印金更紗が貼られている。①は赤地幾何形花チュブロック、②と⑤は黒地パダン菱幾何形チュブロック、③は薄緑地パダン菱幾何形チュブロック、④は茶地パダン菱幾何形チュブロックである。⑥は赤地ボーダー幾何形である。前述の付書院地袋上部、床脇天袋上部、大襖裏の中央部・下部、欄間の裏、襖の①と⑩と同じである(巻末図29-1,29-2)。 

4-3-4-10.まとめ

以上が御幸の間に使われている室内装飾織物である。9箇所に地色・文様の異なる12種類が貼られている。12種類のうち、3種類の裂は異なる箇所に同じものが使用されていることがわかった。最も使用箇所が多いのは、赤地ボーター幾何形の印金更紗であり、付書院地袋上部、床脇天袋上部、大襖表の上部、大襖裏の中央部・下部、欄間の裏、襖の①と⑩、衝立の⑥の6箇所である。2番目は、青緑地ボーダー唐草模様の印金(截金)更紗で、付書院地袋下部、大襖裏の上部、欄間表の上部の3箇所である。3番目は茶色地パダン菱格子模様幾何形小花チュブロックの印金更紗で、床の間地袋と床脇天袋下部の2箇所である。もとの裂については考察で述べる。 

4-3-5.愛知県八勝館御幸の間文献調査

八勝館御幸の間に関する3つの文献調査結果は次のとおりである。 

4-3-5-1.堀口捨己作品・家と庭の空間構成

御幸の間は、1950(昭和25)年の秋に名古屋で催された国民体育大会の折に、天皇、皇后両陛下の宿泊のために建てられた(堀口、1978、120) 。

設計者の堀口は「八勝館みゆきの間の意匠について」として、この建物で心を使ったのは、広間境の欄間と襖だと述べている(同、120)。当初襖は横山大観の障壁画が描かれる計画であったが、堀口はその計画を却下して裂を貼る選択をしている。その理由については、部屋を一つの調べに撃ち抜かれた纏まりある世界にするためには、建物の一部である欄間と襖に強い個性のある絵を使うと部屋としての纏まりが実現できなくなるためとしている。そして、裂について堀口は次のように述べている(同、120)。 

それは新渡りの南方の切地を張ったのである。アップリケイのごとき効果をねらったのである。(中略)色麗しく強い地に、細かい截金の摺箔(印金)をしたものである。(中略)特にふすまに張った切は十一尺に八尺あまりある大きさの、もめん地に、空色と紫との絞り染めとなった上に截金の印金を施したのである。それは辻が花として室町時代から世に用いられたものに似ている。しかし文様は挿絵のようにトランプのダイヤのごとき姿が染め分けられていた。 

裂については、新渡りの更紗で印金(截金)と絞染の加飾が施されており、文様については、トランプのダイヤのようであるとしている。大きさは長さ330cm、幅240cmである。「みゆきの間に使われた切地原形」として挿図1がある(同、120)。

挿図1_八勝館御幸の間大襖の裂の原型 (転載『堀口捨己作品・家と庭の空間構成』1978、120)

中央に大きな「むらさき」の菱形があり、その周囲は「そらいろ」の裂である。
これを36のパーツに切ってパッチーク状に再構成して襖に貼っている。裂を切ることについては多くの反対意見があったようである。36に切った理由について、堀口は次のように述べている(同、120)。
 
私は思い切って三十六の切に切ってしまったのである。日本の座敷はそれが全き姿で納められるようなスケールの大きさを持っていなかったし、その異国的な見え掛りは、私の企てた日本座敷にはうつらない類のものであった。また三百年ほども過ぎた切では糸も弱っているので、ふすまに張るという保ち方が最も好ましいことあった。また切った切もすべてが一部屋に使われているから元の姿に返すこともできなくはなかった。
 
裂を切った理由については、日本の座敷のスケール感に合わせた、裂が脆弱なため襖に貼ることが保存上最適である、一部屋の中にあれば復元することも可能である、としている(同、120)。
また、襖貼りはこのような珍しい裂でなくてたやすく入手できるものでなくてもよいが、御幸という珍しいことのために特別に設われた部屋であるためこうなったと述べている。「これは絵の代りになる新しい座敷飾りとしての一つの試みである」と述べている(同、120)。
 
4-3-5-2.数寄の名料亭[6]八勝館
八勝館本店は名古屋、現在の昭和区にあり市街地の中にあるが、広大な敷地には緑が多く残っている。創業は1925(大正14)年で、旅館を開業したのが始まりである。名の由来は、ここが丘陵地で八つの佳景を遠望できたためともいわれている。
御幸の間は1950(昭和25)年に国体が名古屋で開催された際に昭和天皇のご宿泊所として増築された座敷で設計者は堀口捨己である。翌1951(昭和26)年に日本建築学会賞を受賞した。木造の増築でしかも数奇屋造の建築が選ばれるのは異例であるという。堀口は「利休の茶」で北村透谷賞、「利休の茶室」で日本建築学会賞論文賞を受賞されるなど、茶の湯と茶室、数奇屋造に関する領域で造詣が深かった。池田は「「御幸」の間は、「こうした成果の上に練り上げられた「堀口好み」の座敷であり、桂離宮の芳香を漂わせる建築」であるという(池田、1990、64)。
御幸の間は玄関の南方の一番奥にある。南側に池があり、東側は池に注ぐ瀬に面している。床を高く張り、瀬に月見台を大きく張り出して、桂離宮御殿を断片的に連想させる(同、64)。主座敷は16畳、次の間が10畳で、東側と南側に一間幅の入側縁をまわす京間の座敷となっている。主座敷の西面に大きく上段をとり、中央二間を床にして、左は書院、右は床脇棚にしている。上段の間口が四間にもおよぶが、書院や袋棚の定型を巧みに解体して、さり気なく組み直しているという(同、64)。左側の書院は床と離し、垂れ壁を設けて書院前に独立した空間を形成し、その中の天井を更に二つに分け、上段側を桐の網代張り、下段側を化粧屋根裏にしている。卓板は上段と下段にまたがって通し、下段側にのみ小襖を建てて地袋にしている。入側の境は坊主襖を建てて茶道口とし書院側の一畳を点前座として使用することもでき、この場合は地袋を洞庫(どうこ)として転用することも可能な造りとなっている。坊主襖の上と書院の下段側の障子の上には円窓の下地窓(したじまど)があけられ、桂離宮を連想させる。右側の床脇棚は、天袋と地袋を分離して90度回転させた矩(かね)折りに配置し、正面壁には下地窓をあけている。床を中心に書院に対するもう一方の端として、絶妙の釣り合いを保っているという(同、65-66)。
次の間や縁も含めて御幸の間全体を通してみると、全てがゆったりと割り付けられ、それでいて間延びするところが全くないという(同、66)。
御幸の間の室内装飾織物について、次の記載がある(同、66)。
 
建具では、襖の意匠も「御幸」の間の大きな特徴である。次の間境の襖をはじめ、地袋の小襖、次の間の襖などに、南方風の摺箔裂地が貼られている。欄間や屏風にも使われており、それぞれ色や文様が異なっている。
 
また、御幸の間の写真のキャプションには「主室と次の間を仕切る襖。東南アジアの摺箔裂地を堀口捨己のデザインにより貼ったもの」とある。
御幸の間と共に堀口捨己の設計により1958(昭和33)年に増築された座敷に桜の間がある。間取りは主座敷が13畳半、次の間が7畳半、2畳の踏込と縁がついている。主座敷の室内装飾織物については「天袋の襖は金箔のえぼしもみ仕上げで、上下に裂地を貼っている」とある(池田、1990、68)。
この上下の裂地は、実地調査により御幸の間には同じ裂地が使われていないことを確認した。また桜の間の主座敷の室内装飾織物については次のように説明している(同、68)。
 
次の間では棚の構成が注目される。三角形の袋戸棚、地袋、一枚板を大胆に複合した構えである。三角形の棚の小襖は古びた銀箔置紙、地袋の方は間道風の裂地が貼ってある。
 
間道風の裂地は、実地調査により御幸の間には同じ裂地が使われていないことを確認した。
 
4-3-4-3.DOCOMOMO 20 JAPAN 文化遺産としてのモダニズム建築展
DOCOMOMO(ドコモモ)とは、The Documentation and Conservation of buildings,sites and neighborhoods of the Modern Movement(モダン・ムーブメントにかかわる建物と記録調査及び保存のための国際組織)の略称で、1988年にオランダのアイントホーヘン工科大学内に設立された。この組織の目的については、どこのものであれ、モダン・ムーブメント(近代運動)に関わる重要な建物が存続の危機に立たされたときには、いつもそれを監視したり、保存技術に関する情報を交換し、モダン・ムーブメントに関わる遺産を継承する必要があるという認識を育てるとともに広め、そして権力を持つ人々にモダン・ムーブメントの遺産について彼らに責任があることを認識してもらうことであるという(松隈ら、2000、6)。組織は本部と支部で構成され、支部は国単位で加盟することになっている。本部は各支部に現存するモダン・ムーブメントの好例を20件ずつ選定することを依頼した。選定基準は各支部に任されている(同、11)。2000年に、『The Modern Movement in Architecture /Selections from the DOCOMOMO Registers』 (edited by D.Sharp & C.Cooke, 010 Publishers)にまとめて出版している。同じく2000年に日本支部は正式に加盟し、神奈川県立近代美術館(鎌倉館)を会場に、選定したDOCOMOMO 20選についての展覧会やシンポジウムを開催した。20選は、1926年から1966年までにつくられた建築で、小さな木造住宅から大きな公共施設まで多岐にわたる(同、14)。八勝館御幸の間はこの20選の中の一つである。設計した堀口は、線や面で構成される美を日本でもっとも早く提唱した建築家であるという。彼によれば茶室にこそ日本建築のエッセンスがあり、その美的構成は柱や障子・畳などによって作られ「構成」にあったという。八勝館は茶室の流れを汲む数奇屋風書院でまとめられており、桂離宮などの数奇屋風書院のモチーフを元に変化ある空間構成を展開している(同、38)。
 
4-3-6.愛知県八勝館御幸の間調査結果まとめ
八勝館御幸の間について愛知県近代和風建築総合調査報告書、実地調査、文献調査にて前述したことをここでまとめる。所在地は名古屋市昭和区広路町石坂29である。御幸の間は1950(昭和25)年に国体が名古屋で開催された際に昭和天皇のご宿泊所として増築された。設計者は堀口捨己である。1951(昭和26)年に日本建築学会賞を受賞し、1999(平成11)年にはDOCOMOMO JAPANの20選に選定されている。構造は木造平屋建入母屋造と切妻造・桟瓦葺と藁葺で、「堀口好み」の座敷である。主座敷は16畳、次の間が10畳で、東側と南側に一間幅の入側縁をまわす京間の座敷となっている。主座敷の西面に大きく上段をとり、中央二間を床にして、左は書院、右は床脇棚にしている。左側の書院は床と離し、垂れ壁を設けて書院前に独立した空間を形成し、卓板は上段と下段にまたがって通し、下段側にのみ小襖を建てて地袋にしている。入側の境は坊主襖を建てて茶道口とし書院側の一畳を点前座として使用することもでき、この場合は地袋を洞庫(どうこ)として転用することも可能な造りとなっている。右側の床脇棚は、天袋と地袋を分離して90度回転させた矩(かね)折りに配置している。御幸の間全体を通してみると、全てがゆったりと割り付けられ、それでいて間延びするところが全くないという。
愛知県近代和風建築総合調査報告書によると室内装飾織物の使用は大襖1箇所であったが、実地調査により9箇所であることがわかった。裂の種類は14種類でうち3種類は異なる箇所に同じ裂を使用している。
当初大襖には横山大観の障壁画が描かれる計画であったが、堀口はその計画を却下して裂を貼る選択をしている。その理由については、建物の一部である欄間と襖に強い個性のある絵を使うと部屋としてのまとまりが実現できなくなるためとしている。裂について堀口は新渡りの南方の空色と紫との絞り染めとなった上に截金の印金を施したのであるとしている。模様については、トランプのダイヤのようであるとしている。中央に大きな「むらさき」の菱形があり、その周囲は「そらいろ」の裂である。これを約30のパーツに切ってパッチーク状に再構成して襖に貼って「新しい座敷飾りとしての一つの試み」を実践している。
 
 

 

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