万華鏡 ー私のミャンマー物語、2009年のミャンマー までの道ー

2009年3月、NGO職員として私はミャンマーと再会した。

大学卒業後、農業高校の教師を経て念願のアフリカに行ったのが2007年。9ヶ月のインターン期間を終え日本に帰国したのが2007年の年末。

次は南米で活動する団体に入ろうと検索を始めた私に天啓が降りた。検索ワードは「南米」だったのに、何故か「ミャンマー駐在3年間」がヒットしたのだ。私の人生で天啓という物があるのであれば、これが二回目だったと断言したい。余談だが1度目は同じ「南米」で検索したにも関わらず、イギリスで研修、からのアフリカ行きプロジェクトがヒットした時である。

まあともかく直感大好き人間である私はそれを運命だと思い込んだ。その瞬間から来年は私ミャンマーに居るのだわを前提に行動し続けたのが良かったのか、面接に着物で行ったのが良かったのか(当時お金がなく家で眠っている着物以外に録に着るものが無かった)、やはり天啓だったからなのか、とんとん拍子に採用が決まった、までは良かった。

そこから待つこと7ヶ月、とにかくビザが降りない。降りたらいつでも出発できるよう、日雇いの私語とで食いつなぎ、このままでは採用も取り消しか?と不安な夜を幾つも…過ごしてないけど、ひたすら待って、待ってビザが遂に降りた時には年が変わっていた。

約10年ぶりのミャンマー。2009年のミャンマーは、1999年と比べて驚くほど○○だった。などと書いてみたいが残念ながら2009年にミャンマーに降り立った日の事はあまりよく覚えていない。

私と同時に赴任した上司とともにヤンゴン空港に降り立ったこと、これから同僚になる男女の先輩方がミャンマーの民族衣装ロンジー姿で向かえに来てくれていたこと、10年前より格段に近代的になったヤンゴン国際空港に(勝手ながら)少しがっかりしたこと、普段は山奥に引っ込んでいる先輩のために夕食は中華だった(たぶん)ことを辛うじて思い出せる。

それよりも、7ヶ月待ってやっとビザが降りたことへの安堵の方が大きかった気がする。

私が所属していたNGOは失脚したとある政治家のお声掛かりで作られた団体として、元政権に睨まれたからだとか、憶測裏事情はあれど兎に角ビザさえ手にはいればこちらのもの、入国しちゃったもんね!と無邪気に思っていた。実際にこのことがその後影響することはなかったが、軍事政権的なものの面倒くささにはずいぶん振り回された。

自他共に認める適当人間であるところの私でさえ面倒だったのだ、計画性と効率、きっちりかっちり几帳面な上司にとっても発狂しそうな面倒さだっただろう。

ー続く



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