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第48話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

明日はバイトが入っていない。土曜日でも図書館は開館しているのか知らないけど、明日は行こうと思っていた。あれから僕の歩く道は、確実に捻じ曲げられたようだ。

僕は目立つことを避けて、息を潜めて生きてきた。だけどこの数ヶ月、僕の生き方はずいぶん様変わりした。大人時代へ踏み込むということは、何かを犠牲にすることかもしれない。


それは誰かを傷つけたり、また誰かを悲しませたりと、罪を罪と感じない行為とも言えた。胃に流し込んでは、勿体無いと思わず吐くこと。そんな風にも思えた。


悪いという行いさえ基準の狂いが生じている。僕は今、宛てのない道を歩く生き物になってしまっていた。


僕の中で思考がぐるぐる回っているとき、グラスの割れた音が店内を静まり返した。横に居た朋美がグラスを落としてしまったようだ。厨房の奥でマスターが心配そうに顔を覗かせる。

僕は大丈夫ですと伝えて、落ちたワイングラスを片付けに入った。店内に音が戻りいつも通りの光景に包まれる。


怪我はなかったと、カウンターの下にしゃがみ込む朋美へ声をかけた。朋美の瞳が一瞬、焦点の合っていない目を見せた。それは一瞬で、僕がそばに寄り添った瞬間には消えていた。

そのときは気のせいだと思ったし、何ら疑いはなかった。だけど、いつか訪れる朋美への大人の災いだったんだ。


「手が滑ったの……」と腰を下ろしたまま朋美は小さな声で言った。


そして、僕の顔を上目遣いで見つめてきた。瞬間的に、僕らは同じ思いを重ねたのか、カウンターの下で誰にも見えない位置で唇と唇を重ねた。欲のクリームが身体へ塗られる。キスへのプレリュードが溢れ出す。僕は欲求のままに嘘を打って出た。

自分でも驚いたし、それはあまりにも無茶苦茶は行動だった。幸いにも店内に客は一組しかいなかった。閉店時間も迫っていた。


「マスター、雛形さんが手を切ったんで席を外しても大丈夫ですか?」と厨房に向かって言う。


大したことはないと説明して、僕は割れたグラスワインを塵取りで片した。そして、朋美の手を取って店の奥へ連れて行った。更衣室へ一緒に入ると、僕は内側の鍵をかけた。運が良かったのか、タイミングが合ったのか、更衣室は最近、内側から鍵をかけれるようになっていた。

美鈴が扉の前に、使用中の札を忘れるからだ。まるでこの瞬間のために鍵を付けたようにも思えた。


鍵を閉める音がしたと同時だった。僕と朋美は抱き合い、抑えきれない欲望のままに唇を重ねた。激しく舌を絡ませては、お互いに身体を舐め回すように手のひらも動かした。

扉を背にして、僕たちはキスに没頭した。吐息と舌が別の思考を持って、情熱的なキスは続けられた。ブラウスのボタンが外され、僕は貪るように朋美の胸を求めた。

見慣れた黒いブラジャーの上から触れる。朋美の色っぽい声が、重ねた唇から漏れた。


「朋美……」と僕の口から彼女の名前を呼んだ。


二人はキスをやめて、興奮した表情で見つめ合った。仕事中なんだと頭ではわかっていた。それでも欲求は止まらない。朋美の手は僕の下半身に伸びてベルトを外そうとした。

その瞬間、僕は朋美を求めて欲求のままに行動するのだった。自らベルトを緩めて次の行動に移す。ブラジャーのフックを外して胸にオーラルした。


僕らは許される時間の中で、欲望のままに抱き合った。


その日の夜、仕事を終えたあと、アパートへ戻ってクラッカーとビールと巻煙草を交えて、セックスを何度も繰り返した。

真夜中の部屋、煙と溶け合う二人の影がいつまでも重なり合っていた。


そしてこの日を最後に、僕らの日常は狂い始めたーーーー


上野公園の桜が満開になっていた。桜色は僕の心を和ますように風で揺れていた。よく晴れたこの日、僕は千夏先生を確かめるために図書館へ訪れた。

公園内は、これから花見を行う人々で溢れていた。桜の木々から野鳥が爽やかな鳴き声を口笛のように吹いているようだった。行き交う人々をすり抜けて、僕は桜を見上げながら図書館に入った。

時刻は午前十時過ぎ、土曜日の図書館は平日と違って、すでに何人かの利用者が入っていた。僕はすぐさま受付を覗いて千夏先生の姿を確認した。

一人の女性が利用者の対応をしていたが、その人は千夏先生ではなかった。こないだの少しだけ話したショートカットの女性だ。


もしかしたら本棚の整理をしているかもしれない。そんなことを思いながら僕は受付の前を通り過ぎて、本棚の奥に向かって歩き出した。本当にこの図書館は不思議だった。静寂すぎる図書館という名前に嘘偽りはなかった。

独特な雰囲気を漂わせて、人々の足音さえも消していた。あまりの静けさに僕は靴を履いていない感覚さえ感じた。まるで、真綿の上を裸足で歩いているようだ。この静けさに僕は心なしか救われていた。昨日の夜から僕の頭では欲求が離れない。

これは単なる一時的な感情かもしれないが、確実に何かが僕を蝕んでいるような気持ちだった。振り子が過ぎ去っては、朋美の胸が刹那となって映る。

そして巻煙草の匂いが、頭の中で漂っては残っていた。そんな感覚が、頭の中枢神経に電気信号みたいに送られてくる。


この静けさの中、僕はそうした見えない欲求を消すように、静寂な空間に身を委ねた。不思議と精神の錯乱は弱まり、頭の中枢神経に電気信号は死んだように眠ってくれた。

本棚の隙間から、もう一度受付の様子を確認する。ショートカットの女性はまだ、利用者の対応に追われていた。あの様子だと聞き辛い状況だった。僕は仕方なく、再び本棚の並ぶ通路を歩き出した。


そのとき、僕の目の前に長い脚立を立てて、本棚の整理をする従業員の姿が目に入った。深緑のエプロンにクリーム色の長袖、紺のパンツ履いている女性。きっと図書館の制服なんだろう。

受付のショートカットの女性も同じ格好をしていた。僕は立ち止まって、作業する女性の横顔に視線を移した。


少し短めのポニーテールを揺らしていた。

間違いなかった。僕の初恋の女性、長谷川千夏先生だった。

静寂すぎる図書館は時間を止めるように、僕の目に懐かしい顔を思い出させた。


第49話につづく

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