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第29話「アネモネ」

 夕刻から夜が街を覆い被さった頃、夜の山下公園を僕たちは並んで歩いていた。もうすぐ秋が終わって冬がやって来る季節、僕は勘違いをして終わりを迎える事になった。

 哀しみが雨のように降り注いだ時、ぐしゃぐしゃに濡れた身体は乾く事はなかった。夜の深まりが秒針となって、深まる夜の暗さは刻々と時間を流していく。

 僕の袖を恥ずかしそうに摘んで、目を潤ませたまま、無言のまま、足取りの重いまま、悲しみを背負ったまま、僕の気持ちを運びながら歩き続けた。もう話すことは無いのかも知れない。それでも一言、僕は樹里に向かって声を投げた。返って来るのは、カルマが失ったもう一つの命。

「君と秘密を共有しても、私たちの前にカルマは帰って来ない。ねぇ、ホントは知らなかった方が良かったかもね」

「知ったところで還って来ない」と僕も寂しそうな顔をして言った。

 この日の夜、みなとみらいの周辺は不思議と静まり返っている。山下公園も波の音をBGMに流して、人工的な音は一切遮断しているみたいだった。

 カルマも死んだ時、世界の音を遮断するように息を引き取ったのだろう。

 きっと苦しかったよな。

「君って奴は、カルマが言うように不器用な奴なんだよ。ホント、そう思うわ」樹里はそう言って僕の袖を引っ張った。

「ホントだよな」と僕は言う。

 そして僕たちはお互いの顔を見てから、交差点を渡るのだった。胸の中で幾つかの言葉を考えたが、僕は何も喋れないまま交差点を渡っていた。樹里の視線を感じる。きっと交差点を渡りながら、僕の横顔を見つめているのだろう。

 お互いに話したいことはあった筈なのに、無言で交差点を渡り切るのだった。

 渡り切ったと同時に僕たちはお互いの顔を見つめていた。頭の中で思い浮かべたのは、いつかの『無言の交差点』だった。

 まるで数秒前の僕たちじゃないか。あれは都市伝説じゃなかったんだ。どこでも良かった。哀しみを背負ったものが交差点を渡った時、自然と無言のまま渡っていた。

 これが『無言の交差点』の正体なんだとお互いにわかった。

「ふふ、ホントにあるんだ」と樹里はクスッと笑ってから口にした。

 僕は何も答えず、顔だけは笑っていた。そして僕たちはそれぞれの道を選ぶように、交差点で別れるのだった。カルマはホントに事故で死んだ。それだけは嘘のない世界なんだと思おう。

 僕が疑っていた事は間違いで、樹里はカルマを殺していなかった。勝手に思い込んでいた事はただの勘違いだった。樹里は逆恨みしてカルマを殺したと思っていた。

 だけど、彼女は何もしていない。僕の思い込みから真実を作り上げていた。どうしてそんなふうに思ったのか、それは樹里が僕のことを好きだと思っていたからだ。そうじゃなかったんだ。彼女は僕じゃなくて、カルマのことを好きだったという真実だった。

 つまり、樹里はレズビアンでカルマに告白をしていた。だけど、カルマは樹里からの告白を断って僕と付き合う事を選んだ。

『あのね、カルマに振られた時、アネモネの花言葉を言われたの』

『はかない恋か・・・・・・』と僕は呟いてから、カルマの気持ちを考えた。

 きっとカルマは、樹里の気持ちに応える事ができなかった。だから、樹里に対してアネモネの花言葉を贈った。あなたの恋は『はかない恋』だったと・・・・・・

 そんなカルマが死んだ。樹里は哀しみと苦しみで、命日のたびにアネモネを事故現場に置くようになったのだ。僕たちはカルマの事は忘れない。だけど、もう二度と会う事もないだろう。

 そして、もう一つの哀しみを忘れないように生きるしかなかった。

 樹里が共有したかった秘密。それはカルマが妊娠をしていたという真実だった。

第30話につづく

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