見出し画像

「みんな愛してるから」終章 文也③【完】

「夏織さんはもう、他の男を愛することができないでしょう?」

 彼女が死に、テレビや雑誌の自称コメンテーター、SNSの素人たちは好き勝手に彼女の人となりを語った。

 文也は不特定多数との交流や情報収集目的でのSNSのアカウントを持っていないため、又聞きでしかなかったが、死者に鞭打つとはまさしくこのこととしか思えないほど、誹謗中傷されていたという。

 ご丁寧に注進してきたのは、目の前で青い顔をして震えている女だった。結婚寸前、腹の中に子どもがいた恋人を亡くした男に向かって、彼女の友人の顔をして、「実は……」と、悲しげに告げ口をした。

 せめてもの罪滅ぼしに、と辛そうな表情をしていたが、実際はどうだったのだろう。夏織の葬儀のときの狼狽っぷりから、この女が彼女の死に何らかの形で関わっていることは明らかだった。文也がどこまで勘づいているのかを、確認したかったのかもしれない。

「お腹の子が、本当は誰の子であったとしても、もう関係ありません。彼女は僕を愛し、僕の子どもを身籠もり、そして死んだ。ただそれだけです」

 白昼、元交際相手に殺されたという衝撃的なニュースは、憶測を呼んだ。

 本当は、別れてなどいなかったのではないか。

 学生時代からつかず離れずの関係であったことを、彼女の同級生だという女性からの証言として掲載したメディアもある。夏織は女から嫌われる女の典型だったようで、証言者の言葉は、ライターの切り取りもあるにせよ、夏織にも落ち度があったと印象づけた。

 結果、彼女の腹の子は、犯人との間に出来た子どもなのでは? という憶測が広まった。今は有名芸能人の覚醒剤摘発で騒いでいるから、もう忘れられてしまったが、インターネットには、ほぼ永久的に彼女の醜聞がばらまかれ続ける。

 古河の家は故人の名誉を著しく傷つけたとして、中傷者に情報開示請求や賠償請求を行うつもりでいるそうだが、文也にはもはや関係なかった。

 インターネットに、文也の世界はない。今目の前で生きている者と死んでいる者で、愛に満ちた世界は完結している。

 百合子だって、そうだ。彼女からのアプローチは、はっきり言ってうっとうしかったけれど、死んでしまえばそこには、純粋な愛情だけが残る。百合子の一方的な恋心は、彼女の死によって文也に届き、成就した。

 そういう意味では、あの女子高生と同じだ。ビッチな彼女から向けられる性欲には嫌気がさしたが、死は女を純化させるのだ。

 文也は戻ろうとして、一歩踏み出した。その動きに、女はびくりと大げさに反応する。異常者を見る、怯えた目だ。

 ――ああ、そうだ。確か、小野田さんって名前だった。

 ようやく名前を思い出した。

 文也は彼女に向けてにこりと微笑んだ。ただでさえ死は悲しく、陰気だ。それが若者の葬式となれば、なおさら。しかし文也の顔は、この場にふさわしくないものだった。

「小野田さん。あなた、理のことが好きだったのですね?」

 夏織の親友として引き合わされた女が、理の大学で働いていると知ったのは、夏織の葬式でのことだった。会釈をしあっているものだから、知り合いかと理に聞いたのである。

 文系の彼女との接点を持った理由など、弟の可愛い謀略の一環でしかない。弟の考えは、手に取るようにわかる。

 理は、文也から女を引き離したくて仕方がなかった。愛情を起点とする独占欲。これまではSNSで攻撃して、別れさせるくらいだったけれど、夏織が妊娠したと聞いて、一線を越えた。その手駒として、この女を利用した。

 百合子の攻撃から守るため、仕事を辞めさせて、同棲するようになった。けれどそれ以降も、彼女の横顔は憂いを帯び、日に日に追い詰められていった。

 その一端を担ったのが、この女だ。決して疑われない。夏織は唯一の女友達である明美が、自分を裏切るなんて一ミリも考えなかった。

 引っ越しのために訪れた、夏織のアパート。彼女の持ってきた差出人不明の手紙。あれこそがこの悲劇の――文也にとっては喜劇の、引き金だったのだ。

 小学生の頃から、理は変わらない。彼の手口はいつだって、「手紙」なのだ。

 愚かな人間しかいない。愚かだからこそ、文也の思惑通り事は進んだ。

 明美は立っていられなくなった様子で、ふらふらと床にへたり込んだ。見上げる目には、涙が光っているが、文也は何の感慨も浮かばなかった。

 ――だってこの女は、僕のことを好いていない。

 百合子の葬儀を終え、実家に帰ってきた文也を、理は離れに迎え入れた。ひとりでいたら、兄さんまで死んじゃいそうだ、とけなげなことを言う弟に応えた。弟は、喜びを隠しきれない顔をしていた。

 喪服のジャケットを脱ぎ、ネクタイを解けば、理は自然と手を出して受け取る。どっかりと腰を下ろし、テーブルに突っ伏した文也に、理は恐る恐る話しかけた。

『この間は夏織さんで、今度は同僚の人。兄さん、大丈夫?』

 文也は肩を震わせた。泣いているのかと勘違いした弟が、背中に触れてくる。だが、嗚咽ではないことにすぐに気がついて、離れた

 文也は笑ってしまっていた。おかしくておかしくて、たまらなかった。こんな短期間で、己は永遠の愛をふたつも手に入れたのだ。調子に乗るのも仕方がない。そして三つめが欲しいと思ってしまった。

 葬儀帰りなのに、心底嬉しそうにしている文也に、理は戦いていた。

 わかっているくせに。お前だって、父さんがあの子を殺したときに思ったんだろう?

 ――ふたりはいつまでも、幸せに死んでいました、って。

 何を話したのか、文也はあまり記憶していない。震えて顔を強ばらせる理に対して、愛と死の相関関係について熱弁した気がする。彼はみるみるうちに青ざめていった。

『生きている僕よりも、死んだ女の方がいいってこと?』

 その問いに、文也は是と答えた。

 だから自分は、母には長生きしてもらいたいのだ。生きているうちは、憎しみは一時的なものに過ぎないから。愛をよこさない人間の生き死になど、自分には関係ない。

 そう、とだけ呟いて、弟はふらふらと自室に引きこもった。弟が自殺したのは、その五日後のことだった――。

「残念ですが、小野田さん。未来永劫、理があなたを愛することはない……僕を、僕だけを愛して、死んでしまったんだから」

 彼もまた、自分への愛に殉じた。またひとつ、文也の中の永遠が増えた。最も理想的な形で。

 おそらく弟は、悩んだだろう。自分の生死をと文也への愛情を天秤にかけて、どちらが軽いのかを推し量った。死ねば永久に愛し愛されることができると知り、彼はそちらを選んだのだ。

 文也が明美に感じるのは憐憫と優越感だ。二度と理はお前のことなど見ないし、話さないし、当然愛することはない。

「あなたは僕を愛していない。だから、あなたが理の死に絶望してどんな道を選ぼうが、僕には関係ない。ふふ。本当にどうでもいいんですよ? この後すぐ、車に突っ込んでいっても、僕はそのことすら一日で忘れる」

 ああ、でも。

「――あなたも死んだら、弟への愛を永遠にできますね」

 文也は屈み、戻りがてら彼女の耳に吹き込んだ。この世で一番尊い教えを。

 最期のお別れをほとんどの参列者が終えていた斎場に、母の姿はなかった。暴れて別室に移されたか、失神して寝かされたかのどちらかであろう。

 白木の棺に眠る理の顔は、やはり生きているときよりも美しく、文也の心を満たしていく。生前はさすがにしてやれなかったが、今ならキスのひとつくらいしてやってもいいな、と思ったが、やめた。

「あ」

 そういえばさっき、明美にお前も死ねばいいとばかりの誘惑をもちかけたが、死者同士で愛は通じるものだろうか。文也は死んだことがないから、わからない。

 まあ、いいか。それよりも、これからもしも愛する人ができたときは、いったいどうやって永遠を手に入れるかを考えなければならない。自分の手足となって動いてくれた愛する弟は、もういないのだから。

 斎場の外からは、いつしか耳慣れたサイレンの音が聞こえ始めていた。

(了)

いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。