「みんな愛してるから」第一章 夏織⑩
二人暮らしはとても快適だった。夏織の体調が優れないときには、文也が家事を担ってくれる。
炊事、洗濯、すべてにおいて自分より上手で、夏織はわずかに女として、嫁としてのプライドが傷つく
だが、少々焦げた卵焼きであってもありがたがって食べてくれる文也を見ていれば、そんなささくれだった気持ちも和らぐのであった。
そう、幸せだった。
唯一、眠る前に文也が、夏織の腹をいとおしそうに撫でるのだけが、苦痛だった。
「僕の子だ。ほーら、パパですよ」
腹はだいぶ大きくはなってきた気がするが、臨月まではほど遠い。少し太ったかな、程度で、そこに子がいることを、普段は意識していない。
だが、文也のその行動によって、自分は妊娠しているのだと思い知らされるのだ。この腹の中には、子供がいる。もう、産み落とすしかない子供だ。
夏織には、祈るほかないのだ。この子が、文也に似た子であることを。彼の実家で見た写真の中の赤ん坊と、うり二つで産まれてくることを。
毎朝、出勤する文也をわざわざ階下まで見送りに行く。マンションの部屋の中でいいのに、と彼は言うが、夏織は笑って一緒にエレベーターに乗り込む。
傍から見れば、新婚カップルが朝からいちゃいちゃしているだけの、微笑ましくも暑苦しい光景だろう。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
だが、夏織の目的は、別のところにある。
文也の姿が見えなくなったこと、周りに人がいないことを確認してから、夏織は郵便受けを開ける。
何の変哲もない白い封筒に、夏織は一瞬息を詰めて、それから何事もなかったかのように、長く吐き出した。震える指で取り出すと、案の定、宛名も送り主の名前もない。
引っ越し前のアパートだけではなく、文也が元々住んでいたマンションにまで、三日に一度は怪文書が投げ込まれていた。
誰も見ていないのに、夏織はその封筒を、エプロンのポケットの中にこっそり閉まった。エレベーターを待っている間にすれ違った住民に、怪しまれないように笑顔で会釈する。
一人になった部屋の中で、夏織はようやく手紙を開封して、中身を確認する。
文面は、最初のときのように「すべて知っている」とだけ書かれたものも多かったが、もっと踏み込んだ内容のものもあった。
几帳面に折られた紙を開くと、パソコンで打ち込まれた文字が印刷されている。
今日の手紙は、決定的だった。
『腹の子は、誰の子だ?』
高校時代から、夏織はどうやったら男の気を引くことができるか、本能的に理解していた。
クラスメイトの口癖は「彼氏ほしい」だった。そう言う口は、ラメやパールでで盛りすぎていて、可愛いというよりもむしろ、グロテスクなものになっている。そんな口でキスを迫っても、男子は引くばかり。
茶髪にするのも化粧をするのも、夏織からすれば、自己満足でしかなく、男を捕まえるには逆効果としか思えなかった。
男は結局、天然に見せかけた美人が好きだ。
彼氏ができても長続きしない、そもそも出会いがないと愚痴を言う彼女たちに、夏織は具体的なアドバイスをしなかった。
その理由は二つ。ひとつは、ただ彼女たちは話を聞いてもらいたいだけで、解決策、もっと言うならお説教なんてまっぴらだということを、知っているから。
もう一つは、もっと単純。
夏織自身にも、どうすればいいのかなんて、実のところわかっていないのだ。
もっとも、知っていたところで「言わない」という結果には変わりなかっただろう。
だって、みんなが同じことをし始めたら、夏織が際立たないではないか。
勉強も普通。運動も普通。顔もまぁ、中の上という自己評価だ。特にとりえのない夏織は、唯一、男を切らしたことがないという点だけが、友人たちに一目置かれるポイントであった。
大学に入学して制服を脱げば、より磨きがかかる。
講義でたまたま隣に座ったことがきっかけで話すようになった明美は、恋愛なんか興味ありません、というタイプだった。化粧っ気がない、悪くいえば努力をしないブスだ。
高校時代のグループ付き合いは解消され、さてどうやって人間関係を構築していくべきかと考えていた夏織は、いい友人が見つかったと思った。
彼女の隣にしずしずと立っているだけで、、人並みレベルの夏織の美人度は、華美な化粧などせずとも、おのずと上がった。
合コンに連れていっても、鈍感な明美は何も気づいていない顔で、飲み食いするばかりだった。
明美は、夏織の唯一の友であった。夏織の周りからは、気づけば同性の友人が去っていくのである。
『ねぇ。やっぱあの男、やめておきなよ』
そんな風に忠告してくる人間は、明美以外にいない。
大学の四年間、卒業してからも数年、付かず離れず、別れてはよりを戻していた男が夏織にはいた。
『やっぱり俺には、夏織が一番だよ』
夏織の元に戻ってくる度に、男はかき口説いた。その後は抱きしめられ、お決まりのように仲直りセックスにもつれ込む。
夏織は今でも、彼のつけていたコロンの匂いを街中で嗅ぐと、パブロフの犬のように、自分の身体が熱く、発情するのを覚える。
長谷川彰は、顔と身体しかとりえのない、クズだった。何度も泣かされ、明美はその度に、「今度こそ完全に別れろ」と説教した。
それでも夏織は、彰と完全に切れることはなかった。ただただ、顔と身体が好みだった。ストライクゾーンのど真ん中だった。
あの顔で微笑まれ、抱かれると、どんな不平も不満も、夏織の頭の中からはきれいさっぱり、消え去ってしまうのだった。
夏織がアルバイトで稼いだ金のほとんどは、彼のパチンコ代へと消えた。デートも彼のアパートでセックスするだけがすべてだった。
誕生日やクリスマスのプレゼントもなかった。たまにパチンコで勝って、機嫌よく土産だと菓子を放り投げてくる。彰からもらったもので思い出せるのは、それだけだ。
酒を飲むと目が据わり、乱暴な言動が多くなるが、当たり散らすのは壁やクッションなどで、夏織に暴力を奮ったことは一度もない。
明美は、いつ夏織にその衝動が向けられるかわからないと忠告してきたけれど、夏織には絶対的な自信があった。
彼を本当に愛し、受け入れられるのは自分だけ。他の浮気相手の女とは違う。彰は私の元に、必ず戻ってくる。
許し、甘やかし、耐える。
夏織が彼に捧げた愛だ。
夏織が大学を卒業してからも、ずるずると彰との付き合いは続いた。彼のアパートに通い妻よろしく向かい、家事をしてセックスする。
出会った頃は彼も大学生だった。その頃はまだ、彰もまともだった。社会の枠にはまらないことをしたい。そんなわけもわからぬ理由で退学をすると、ダメ人間街道まっしぐになった。
夏織が学生であるうちは、それでもよかった。モラトリアムの中で生きている間は、現実なんて見えないものだ。
しかし働き始めると、社会の厳しさや世間の目というものを、夏織は気にするようになった。
彰は年甲斐もなく、「ビジュアル系バンドを組んで、有名になる」「動画配信で儲ける」などと言い出し、夏織を困惑させた。
何事もインパクト勝負だと言って、奇抜な色に髪の毛を染め、化粧をし始めた。整形代を出せとせびられたこともある。今のままのあなたが素敵なのよ、とおだてて、なかったことにした。
歌もお世辞にも上手いとは言えないし、楽器もできない。格好だけは一人前だが、仲間を募ったり、肝心の具体的なコンテンツを考えることもしていなかった。
ふわっとした夢を抱き、自分の中の無限の可能性を根拠なく信じている彰との間で、諍いが絶えなくなっていた。
喧嘩をすると、彰は部屋をめちゃくちゃにして出て行く。彼の一人残された夏織は、後悔と寂しさで涙を流しながら、片づける。彼が帰ってきたとき、そのままの状態だったら、本当に捨てられるからだ。
家出した彼は、飲み屋で知り合った女たちの部屋を転々として過ごすのだ。それがまた、悔しい。
手持ちの金がなくなれば、彼は夏織の元に戻ってくる。そう信じていた。
彰がアパートに戻るまでの間隔は、徐々に長くなっていった。
潮時か。
そう、彼のことを忘れて過ごそうと思ったときに、夏織は文也と一夜の過ちを犯してしまった。
文也の交際に頷いたのは、彰のことを完全に吹っ切れるために、よい機会だと思ったのもあった。
だが、本当によいことだったのだろうか。
ある日、自分のアパートに帰宅すると、彰が帰ってきた。すまなかった、と真摯に謝罪をすると、夏織の唇に噛みつくばかりのキスをした。これまでどおり、仲直りのセックスをしようとしたのだ。
夏織は拒むことができなかった。文也との交際を決めたのに、飽くことなく彰に抱かれた。
文也は真面目な男だ。婚前交渉をよしとせず、結局、彼としたのは、酔った勢いの最初の一回きりだった。
彰に誘惑されるがまま、何度もセックスに至ったのは、欲求不満のせいも大いにあった。
『あの一回きりでできちゃうなんて、この子はものすごく、運のいい子みたいだね』
目を細めて夏織の腹を撫でる文也を見る度に、気が狂いそうだった。他の男の種の可能性が高い、なんてとてもじゃないが、言えなかった。
引っ越しのタイミングは、また喧嘩をして彰が他の女のところに行ってしまったときを狙った。一度家出をすると、彼は二ヶ月は戻らない。
彰のような人間は、役所が嫌いだからそもそも近寄りもしないだろうが、退職もしたことだし、行方をくらますのに成功したと言える。
病院以外は外出を控えている。見つかったらきっと、彰は自分を脅迫して金をせしめようとする。旦那に全部言うぞ、と。
でも、それ以上に、自分が文也を裏切って、彰にすべてを委ねてしまいそうな気がして、夏織は怖かったのだ。
「大丈夫。大丈夫……彰はこの家を、知らないんだから……」
夏織はぶつぶつと呟きながら、手紙を引きちぎっていった。
しかし、本当に送り主はいったい、誰なのだろうか。自分と彰の関係を知る者は、ほとんどいないはずだ。
一瞬、脳裏を明美の顔がよぎったが、首を横に振った。彼女はずっと、彰と別れろと忠告をしていたのだ。彰に居場所を知らせることなどしないし、親友なのだ。こんな風に夏織を追い詰めることはないと断言できる。
じゃあ、誰が。
夏織は心当たりがないか、考える。誰か、自分を疎ましく思っていて、なおかつ彰のことを知っている人間はいないか……。
「……いるじゃない」
思い出した。一人、疑わしい女がいるではないか。夏織を憎んでいるあの女。百合子だ。
去年の冬だったか。
彰に呼び出され、昼休みに職場近くで金を渡したことがある。そのシーンを、百合子に見られていたのだ。
『あれ? 今の誰ぇ? イケメンじゃなかった?』
百合子の前では、夏織のプライバシーなど存在しないに等しかった。現場を押さえられてしまったので、知らない人ですというのは通用しない。
夏織は咄嗟に、「不肖の兄です」と説明したが、うまくごまかせた自信はなかった。その少し後に「お兄さん、元気?」と声をかけられて、反応に遅れた。百合子は夏織を胡乱な目つきで探るように見ていた。明らかに信じていなかった。
間違いない。あの女なら、夏織の元のアパートの住所も調べられるし、このマンションも同じだ。
ふつふつと怒りと憎しみが湧いた。
もう、限界だった。
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