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「みんな愛してるから」第二章 百合子⑫

 窓から差し込む光のまばゆさに、目を開けた。でも、そうなるのが嫌で、寝る前には必ず、カーテンを閉めるようにしていることを、百合子はふと思い出した。

 昨夜は忘れたっけ。いや、そもそも開けた記憶がないから、閉めっぱなしだったはず。

 ゆっくりと起き上がると、美味しそうな匂いがした。ベーコンの脂の匂いと、バターの匂い。

 一人暮らしの部屋では、絶対にしない匂いだった。朝はたいてい、ありものを貪るか、出勤途中のコンビニで買うか、ファストフード店で済ます。

 寝ぼけているのかと思ったが、起き上がって、恐る恐るベッドから出ると、愛しい男の背中があった。

 少し曲がった男の背中に、百合子はこれが夢ではないのだと実感する。感極まりながら、「サトルくん!」と声をあげた。

 振り返った彼の表情は、眩しくてよく見えない。でも雰囲気で、微笑んでいるのがわかった。

 百合子が勢いのまま抱きつこうとすると、「まずは座って? ご飯食べよう?」といなされる。

「コーヒー淹れるね」

 淹れる、といってもこの部屋にはコーヒーメーカーもなく、インスタントの粉を溶かすだけだ。ポットのスイッチを入れて、彼は百合子の向かいに腰を下ろす。

「どうしたの? 朝からこんなごちそう……」

 高そうなソーセージに、ふわふわのスクランブルエッグ。クロワッサンもほんのりと温められている。

「お祝いだよ」
「お祝い?」
「そう。俺が、大事な人を守ることができた、お祝い」

 大事な人? 私? と、百合子は途端に舞い上がる。

 期待に胸を高鳴らせ、サトルを見つめていると、彼の妙な出で立ちに気がついた。

 朝起きたばかりなのに、ニット帽を深く被り、髪の毛はすっぽりと隠れている。手袋をして、沸騰したポットの湯をマグカップに入れているのは、おかしい。

 さらに奇妙なことに、食事は百合子の分しか用意されていない。サトルの元には、コーヒーカップひとつすら置いていなかった。

 スプーンでコーヒーをかき混ぜているサトルに、そのことを尋ねると、彼はただ、微笑んでコーヒーを差し出した。

「すぐ出なきゃならないんだ」
「そんなぁ」

 甘えた声で拗ねてみせるが、サトルは居残ってはくれないようだった。ふてくされて、用意してくれた朝食を、ガツガツと貪る。

「百合子さんが、食後のコーヒーを飲むところまで、見届けてから帰るよ」

 用意された物を食べ尽くすのは、あっという間だった。百合子はマグカップを受け取った。向かい側に座ったサトルは、手を組んで顎を載せた状態で、百合子をじっと見つめる。

 その目が、早く飲みなよ、と促している。

 カップで指先を温めながら、百合子はコーヒーに口をつけるのを、躊躇した。今日のサトルは、やっぱりどこか変だ。

 優しいのはいつものこと。だけど。
「どうしたの?」
「え、あ……ううん。なんでもないわ」

 カップの中身に目を落とす。ミルクが入って、まろやかになったコーヒーは、ほとんどカフェオレだ。

「早く飲まないと、冷めちゃうよ」
「そう、ね」

 ゆっくりと、百合子はコーヒーに口をつけた。苦い。いや、コーヒーだから苦いのは当たり前なのだが、それとは違う味。

 一口飲んで、吐き出そうとした。生命の危機に、身体が自然に反応する。

 しかし、それは叶わなかった。手袋に覆われたサトルの手が、マグカップを押さえつけ、百合子に無理矢理コーヒーを飲ませる。

 ゲホゲホと咳をするのは、コーヒーが気道に入ってむせたせいではない。もっと、奥。食道が、胃が、全部、焼ける。咳とともに、赤黒い血がカップの中に広がっていく。

 どさり、と床に音を立てて倒れ込みそうになるが、咄嗟にサトルが腕を出し、庇った。音を立てないように、床に横たえられる。

 コポコポと血を吐きながら、百合子は「どうして……」と息も絶え絶えに、サトルに問いかける。

 どうして私が殺されるの。愛している男に、愛してくれた男に。

 サトルは哂う。見下ろしてくる目は、冷たいものだった。これまでが幻であったかのように。

「どうして? 当たり前でしょ? 俺の大事な人に近づく女は、みんな邪魔なんだ。古河夏織だけじゃないさ」

 サトルの大事な人とは、誰だろう。少なくとも、自分ではないということを思い知らされて、百合子は絶望する。

 百合子が近づいた人間。それは、たった一人。

 まさか。

「兄さんに近づく奴は、みんな死ね」

 ぞっとする声音で、でも彼は楽しそうに、歌うように語る。

「百合子さんはね、自殺したんだよ」

 意識が薄れていく。せめて、この血を彼の身体のどこかに付けることができたなら、一矢報いることができるのに。

 必死に手を伸ばすが、サトルは――サトルと名乗った男は、ひらりとかわす。

 百合子の手が、力を失って、床に落ちる。吐き出した血を避けて、男は机の上に、小さな何かを置く。

「これが何か、知りたい?」

 ぴくぴくと痙攣するだけになった百合子に、彼は楽しそうに語りかける。

「これはね、古河夏織に送った手紙の、データ。遺書をパソコンで用意するのは怪しいけど、これだけで、警察や百合子さんの同僚が、勝手にストーリーを作ってくれると思わない? ……もう、聞こえないか」

 百合子が最期に聞いたのは、男の忍び笑いだった。


→第三章 理

いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。