見出し画像

「ごえんのお返しでございます」5話 切っては紡ぎ、紡いでは切り④

「姉さん、なんか今日、嬉しそうだね」

 自分のイベントでもないのに。

 僕の溜息交じりの問いかけに、姉は、「うふふふふ」という笑い声を噛み殺す気がない様子で、にやにやしながら頷いた。

「そりゃあ、ね。可愛い可愛い弟の卒業式でしたからね」

 高校を卒業後、進学もせず、アルバイトすらしていない姉は、世間的には立派なニートだ。

 要するに暇人で、彼女は今日の午前中、僕の卒業式に保護者として出席すると言って聞かなかった。一家庭での人数制限はないとはいえ、義務教育が終わるだけのセレモニーは一家そろって参加する、一大イベントではない。

 母が、「あんたも卒業した学校でしょうが。先生たちに今の自分を見せられるのか」と、強く説得したことによって、渋々諦めてくれた。

 僕が帰ってきて、姉が真っ先にしたことは、僕の学ランのボタンの無事を確かめることであった。

「姉さん。僕、そんなに心配しなくてもモテないよ」

 昭和から平成、そして令和の学生にいたっても、第二ボタンだのネクタイを交換するだの、卒業式の恋愛ジンクスは、脈々と受け継がれている。

 クラスで一番モテる男子は、もみくちゃにされて、気づいたらボタンが全部引きちぎられていた。漫画以外でも、あんなのあるんだな。遠くで見ていて、感動すらした。

「そんなのわかんないでしょー」

 ふんふん、と鼻を動かして、ハンガーにかかっている僕の制服の匂いを嗅いでいる様は、明らかに変態である。

「やめてよそれ、本当に」

 強めに言って、ようやくやめてくれる。その前に、大きく胸いっぱいに吸い込むあたりが、本当に無理。

「もう」

 呆れて何も言えない僕と、にやにやしている彼女。時折僕は、姉の兄になったような気持ちになる。

「ねぇ、もう寝るから、戻りなよ」

 特に目立った任務を負ったわけではないが、式典の主人公のうちのひとりになるのは、心と身体に負荷がかかった。今日は疲れた。もう眠い。

「えー、もうちょっとお喋りしようよぉ。ほら、お酒もあるしっ!」
「僕は未成年ですよ、お姉様」

 部屋着にしているふわふわもこもこのパーカーのポケットから、チューハイの缶がふたつ出てきた。彼女は酒に強いわけではない。二本も飲まないから、一本は僕の分という計算だ。

「いいじゃんいいじゃん。中学校を卒業したお祝いの、今日くらいはさぁ」

 きししし、と笑う様は、世界的にも有名な、児童文学に出てくる猫のようだ。原作というよりも、アニメ映画の方だけど。

 にやにやして、ふわふわ何も考えていないようで、こういうときの姉はしつこい。経験上、僕はよく理解している。

 彼女の手から缶をひとつ取った。グレープフルーツよりは、パインの方が甘くて飲みやすそうだ。

「お。いきますか?」
「いかないと、寝かせてくれないんでしょう?」

 よーくおわかりで。

 ぎゃははと笑う姉と、缶を合わせて乾杯。

 グラスと違って音が鳴らないから、なんだか間抜けな儀式で終わった。



 身体が重い。高校受験に卒業式、疲労が蓄積した結果か。体がバキバキで、寝返りを打とうとしたら、動けなかった。

 なんで?

 それに、なんだか揺れている気がする。すわ地震かと、僕は一気に覚醒した。

 電気は消えていて、今日は月明かりもほとんどない。起きたばかりの寝ぼけ眼には、自分の上でもぞもぞしている黒い塊が映り込んだ。思わず、「ひっ」と情けなくも悲鳴を上げかけた。

 目が慣れてきて、輪郭がはっきりとしてきてから、僕は声をかけた。

「姉さん?」

 こんなおかしなことをするのが姉以外にもいるとしたら、大変だ。

 予想が当たっていてほしい気持ちが半分、姉だとしたらいったい何をしたくて僕の上にいるのかという気持ちが半分。どちらに転んでも、不可解で不愉快で不気味だ。

 声が出づらいのは、初めての酒のせいだろう。酒焼けの声、とはよく言ったもので、ううん、と一度咳払いをしてから、再び「姉さん」と声をかけた。

 ……獣かと思った。

 ようやく顔を判別できた姉を見た、第一の感想が、それだった。黒い塊が人の、女の姿を取る。歯をむき出しにして笑う、人のかたちをした肉食獣。

 こう言うと、しなやかな身体や挑戦的に光る瞳など、ある種の性的な魅力を感じるかもしれない。女豹、とかいうやつだ。実際の姉とは似ても似つかないイメージだった。

 服の上からは細身に見える肢体は、布を取っ払ってしまえば、引きこもり生活で衰えた筋肉、そのかわりに蓄えた脂肪が、よくわかる。

 姉は、全裸だった。幼い頃に一緒に風呂に入ったりしたことはあるが、彼女が小学校高学年になって以降は、一度たりとも見たことのない裸。

 小さな胸、ぽっこりと膨らんだ柔らかな腹部、そしてその奥には、秘められた場所が続いているのだろう。

 今日が満月じゃなくてよかったと、本気で思った。上半身だけでもグロテスクなのに、下半身まで丸見えになっていたとしたら、僕はおそらく、この場で卒倒していたに違いない。

 気絶したあと、何が起こるか。うっかり想像した。僕の思い過ごしならよかったのに、この状況では、想像がリアルすぎて、冷や汗が流れていく。

「なに、してんの……?」

 声が震えた。答えを得られたところで、納得できないだろう。理解の範疇を超えている。

 それでも僕は、問いかけた。これが悪い夢であることを祈って。

「なにって……夜這い?」

 こてん、と首を傾げる仕草は、いったいどこで学んできたのだろう。僕の身体の上に乗り上げ、身体の前に手をついて、ない胸をなんとか寄せ上げている。

 性質(たち)の悪いアダルト動画そのもの。自分の視点はカメラを持った男優と同じなのだということに気づき、吐き気がした。

「中学も卒業したんだしさ、童貞も卒業しちゃおうよ、お姉ちゃんで」

 彼女の手が僕の胸をなぞった瞬間、振り払っていた。

「ふざけんなよ! マジでキモい!」

 強い拒絶を予想していなかったのか、姉は驚いて、「なんで?」と、心底不思議そうな声をあげた。

「なんでって……こんなのありえない。僕は姉さんのこと、家族としてしか好きじゃな。い。エッチなんてできるわけないだろ!?」
「私がこんなに愛してるのに? え? 紡ぐだって、私のこと好きでしょ?」

  黒い星のような目が、僕を射殺す。引力に吸い寄せられそうになるが、僕は決して屈することはない。

 屈したら、姉とそういうことをすることになる。それだけは、絶対に嫌だ。強い意志をもって、僕は姉の劣情をいなす。

「僕と姉さんの好きは違うみたいだね」

 実際、姉の裸を見ても、恐怖で心臓はバクバクしているが、性的興奮とは違う。僕の身体の中心はびっくりするくらい冷めていて、一ミリも反応していない。

「なんで? きょうだいでなんでエッチしちゃだめなの?」
「なんでって……」

 壊れた倫理観に絶句する。一般的な感覚じゃない。常識とずれているから、姉は引きこもることになったのだろう。朧げに原因が見えてくる。

「とにかく、僕が嫌なんだ」

 反応させれば勝ちだと思っているのだろう。姉は僕の急所にまで手をのばしてくる。乱暴に払って、僕は悲しくなる。

「ねぇ。本当に嫌なんだよ。姉さんは、僕が嫌がることを無理矢理するの?」

 姉と近親相姦関係に陥るつもりがまったくないのだと、半泣きになって説得する。

 彼女は駄々をこね、泣いて喚いたけれど、僕は頑として突っぱねた。

 親が起きてきて、異変を察知したらと思うと、気が気じゃなかった。僕がすべて悪いことにされかねなかった。

 最終的には、「そう……それでいいのね?」と、姉は言い、立ち上がった。

 ゆらりとしたシルエット。まるで幽霊みたいに揺れる。彼女は笑う。笑い声はいつしか、泣き声になっていく。

「姉さん?」

 その背にかけた声は、むなしく夜の空気に溶けていった。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。