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「みんな愛してるから」第二章 百合子⑦

 平日は真面目に業務をこなしつつ、陰で夏織をいびり倒す。そしてご機嫌な気分で、週末はバーでサトルと喋るのが、お決まりのコースになっていた百合子だったが、今日はサトルが来るなり、泣きついた。

「サトルくん! あ、あの女……!」

 過呼吸気味になる百合子の背を、サトルは優しく撫で擦る。

「落ち着いて。慌てなくていいよ。全部、ちゃんと聞くから」

 何度も繰り返し囁かれて、百合子は次第に興奮を鎮めていく。深く呼吸して、それから話し始める。

「あの女、浅倉くんの子供を妊娠したって……!」

 サトルは一度目を閉じて、それから早口に、「まあ、付き合ってる男女ならそういうこともあるよね」と、言い聞かせるように呟いた。

 一昨日、給湯室で百合子は夏織と二人きりになった。そこで直接、嫌味を言った。課長のぼやきを伝聞しただけだから、この程度ならば平気だろうと思ったのだが、夏織は激昂し、危うく手を出されそうになった。

 文也の名前を出すことで事なきを得て、給湯室を後にしたのだが、しばらく待っても夏織は戻ってこなかった。

 課長はもうお茶なんていらない、と言っていたのに、いつまで経っても戻ってこない夏織に、立腹している様子だった。

 仕事もできないくせに、サボりか? 課長の怒りが沸点に到達する前に、「私、様子を見てきまぁす」と、後輩が夏織を呼びに行った。

 無論、彼女が率先して動くわけもなく、他の同僚が目配で合図をしたのだろうが、その経緯については、どうでもよかった。

 血相を変えて彼女は戻ってきた。

『た、大変ですぅ! 古河さんが、給湯室で倒れてます!』

 百合子の血の気も引いた。急に倒れるなんて、まるで私への当てつけじゃないか。

『さっきまで、普通だったのに』

 そう口に出すと、なぜか白い目で見られたような気がして、押し黙った。

 男性職員に抱えられて戻ってきた夏織は、意識を取り戻していたが、しばし休んだあとで、病院に行った。

 そして昨日、文也の口から、彼女が倒れたのは、妊娠が理由のひとつであることを告げられた。夏織は退職をするそうだが、百合子は聞いていなかった。

 気づいてしまったのだ。

 文也に初めての経験を捧げ、本当の意味で女になることを望んでいたが、行為としては、何ひとつ具体的に考えたことがなかったのだ、と。

 夏織が妊娠したということは、文也とセックスをしたということだ。文也の精子が、夏織の体内へと注がれたということだ。

 ベッドの上で、一糸まとわぬ姿になって、抱き合うというビジョンしか抱いていなかった自分は、最初から夏織に敗北していた。百合子の絶望は深かった。

 突然のことで、皆の思考も追いついていないのか、まばらな祝福の拍手の中で、夏織は頭を下げた。

『残り短い期間ですが、よろしくお願いします』

 彼女の表情は、愛されている女としての誇りに満ち溢れていて、百合子は思わず拳を力いっぱい握って、震わせていた。

 じっと夏織を睨みつけていた百合子であったが、はたと気がついた。周囲の人々の視線が、自分に集中している。それも、歓迎できるようなものではない。

 違う。私は何もしていない。誰の前でもボロを出したことなんて、なかったじゃないか。給湯室で話をした後のタイミングで、夏織が勝手に倒れただけだ。

 妙な空気は伝播していき、課長のところまで届く。

 課長。課長は最後まで、私の味方でしょう?

 祈るように視線を向けると、彼はそそくさと、座席を立ち、どこかへ行ってしまった。

 そんな。

 百合子はひとりになってしまった。再び夏織に目をやる。そのときの彼女の顔を、百合子は絶対に忘れないし、決して許さないと思う。

「あの女、笑ったの。私のことを馬鹿にして、可哀想なものでも見るような目で!」

 わっと声を上げて百合子は泣きだす。感情が先走って理性が追いつかない、そんなとき、サトルはいつもなら、百合子を宥めてくれるのだが、今日は一向に、優しい言葉をかけられない。

 百合子は顔を上げて、「サトルくん?」と、涙でぐちゃぐちゃな顔を上げた。一瞬ぎょっとした表情を浮かべた彼だったが、やがていつもどおりの笑みを浮かべ、百合子の髪の毛を梳いた。

「そっか……ショックだったよね。妊娠じゃあ、しょうがないよね……」
「しょうがなくないもん!」

 近いうちに、二人は結婚する。妊娠で予定が早まった。それでも文也のことが好きだ

 どうやったら邪魔ができるのだろう。百合子はイライラと爪を噛む。

 腹の中の子ども、倒れたときに流れてしまえばよかったのに。

 文也の遺伝子が入っていたとしても、夏織の腹にいると思えば、憎しみの対象になる。

 だが、さすがに妊婦の腹を殴って流産させようとまでは、思えなかった。倫理観がギリギリで打ち克つ。

 サトルはしばらく黙っていたが、ふと、思いついたように口にした。

 それは百合子の記憶を呼び起こす、悪魔の囁きだった。

「本当に、浅倉文也の子供なのかな……」

 百合子に話しかけているというよりは、独り言だった。そうであってほしいと祈るようにも感じられる響きだった。聞きとがめて、百合子の涙は引っ込んだ。

「どういうこと」

 そういえばいたんだっけ、という顔をする男に、自尊心を少々傷つけられながらも、百合子は詳細を聞きたくて促した。

「ああ、いや……話半分に聞いてほしい。ただの思いつきだからさ。その女って、百合子さんみたいな一途なタイプとは、正反対なわけじゃん」
「ええ」

 夏織は間違いなく、清楚ビッチという奴だ実際、文也と付き合う前は、彼女の周辺は常に、色っぽい噂話が飛び交っていた。役所内で「付き合いたい」と零す職員がいたとか、窓口にやってきた男と親しげに会話をしていたとか。

「それに、浅倉は草食系男子なんでしょ? 今まで男をとっかえひっかえしているような女が、浅倉みたいな男で満足できるものかな」

 どう思う? と問われ、百合子は唐突に思い出した。涙はすっかり渇いていて、冷静な心も戻ってきた。

「……そう。そうだわ。私、見たことある! あの女が付き合ってた男の姿!」

 あれは去年のいつだっただろうか。確か、近くの喫茶店に期間限定のグラタンランチを食べに行った帰りだから、冬だ。

 夏織は周囲をちらちらと確認していた。誰かに目撃されていないか、警戒していたのだろう。百合子にばっちり見られていることを知らずに。

 向かい合っている男は、背が高く、遠目にも精悍な顔立ち、身体つきをしていた。その当時、百合子は「ああ、好きそう」という感想を抱いて、「彼氏?」と何の気なしに尋ねた。

 夏織は「兄です」とかたくなに言い張ったが、嘘だと思った。

 あの男と文也は、まるきり正反対のタイプだ。

 何よりも違うのは、その立ち姿である。文也は彼自身の美点を体現するかのように、真っ直ぐに、ピンと背筋を伸ばして立つ。

 だが、男は猫背で、しかもポケットに手を突っ込んでおり、夏織に擦り寄るような素振りを見せていた。

「あれはきっと、ううん、絶対に、ヒモよ」

 女に寄生するのが常になっている男が、いきなり自立して生きていけるはずもない。ああいうタイプの男は、自分を必要としてくれる女を見分ける嗅覚が優れていて、しかも、相手の心を掴んで離さないテクニックにも長けている。ドラマではそうだった。

 そしてそんなクズに惚れる女は女で、問題がある。少し優しく謝られれば、ころっと騙されて、元の鞘に収まる。まさしく割れ鍋に綴じ蓋というやつだ。

 本当にドラマなら、女はぶち切れ男は改心し、真人間になったところでハッピーエンドを迎えるが、現実は醜い。

「ヒモなら、そう簡単には女を手放さない、か……ありうる話だね」

 サトルは唸りながら、百合子の仮定に同意を示した。

「でしょう!?」

 我が意を得たりとばかりに、百合子は興奮する。

 もしも百合子の考え通りに、夏織と男の関係が切れていないとすれば、それはすなわち。

「あの女の子供が、浅倉くんの子とは限らないじゃない……!」

 文也の辞書には、浮気という文字はない。だから、婚約者が自分を裏切っているなんて、思いもよらないに違いない。

 教えてあげなきゃ、と意気込んでスマートフォンを取り出した百合子の手を、サトルは押しとどめた。

「どうして!」

 サトルは首を横に振り、百合子を諭す。

「証拠がない」

 と。

 私がやったという証拠があるのか。そんなに言うのなら、証拠を出せ。

 そう言って嫌がらせの追及をかわしてきたが、その発言が今、百合子の元にブーメランのように戻ってくる。

「親子鑑定とか……」
「今は生まれる前にもできるみたいだけど、お金かかるよ。二十万円とか。誰が出すの?」

 なおも言い募る百合子を、サトルはばっさりと切って捨てた。二十万円の出費は痛い。お金は出すからやっておいた方がいい、と軽々しく言えるレベルの金額ではない。

「それに、彼女が浮気してるかもって言っても、簡単には信じないでしょ、その人」

 妙に確信を持っているらしく、サトルは断言した。まるで文也の人となりを見てきたかのように語る。

 おそらく、会う度に文也について語るものだから、自分も知り合いのような気にでもなっているのだろう。

「それより、せっかくネタを掴んだんだから、もう一歩、先に踏み込んでみたらどう?」
「先って?」

 文也をつついても無駄ならば、標的は夏織以外になかった。コツコツとテーブルを指で叩きながら、サトルは提案する。

 いつだって、彼のアドバイスは、百合子を強くしてくれた。実行すればうまくいく。

 しかし、百合子は彼の言葉を聞いて、「それはちょっと……」と、返事を躊躇った。

「なんで? 今までの嫌がらせと、そんなに違わないでしょ?」

 サトルの笑顔は、いつも通りだった。それが逆に、怖かった。

 彼は百合子に、夏織の家を知っているかを尋ねた。行ったことはないが、役場の処世術として、毎年の年賀状は課の全員で送り合っているから、それを見れば住所はわかる。

「そこに手紙を送ってやればいいよ。お前のお腹の子の、本当の父親を知っている、ってね」

 月末で夏織は退職するから、これ以上彼女にダメージを与えることはできないと諦めかけていた百合子だったが、サトルは夏織を逃がす気はないらしい。

 もはや、百合子よりもサトルの方が、夏織に復讐を目論んでいるようなものだ。

「でもそれって、下手をすると脅迫だとか、ストーカーだとか思われないかしら。私、あんな女のせいで捕まりたくないわ」
「捕まらなきゃいいのさ」

 珍しく、百合子が宥める側に回った。

 サトルはしつこく、文面を工夫すれば大丈夫だとか、家の郵便受けにポスティング業者を装って直接投函すれば、消印も残らないなどと、夏織に悪意を送り届ける術を、いくつも提案した。そのことごとくを、百合子は首を横に振って拒絶した。

 職場に限定したことならばやれるが、外に出て害を成す勇気はなかった。

 宛名も差出人も消印もない、不都合なことが書かれた手紙。それを人は、脅迫状と呼ぶ。

 話している相手が突飛なことを言い始めると、人間というのは幾分か、頭が冷静になるものらしい。

 すっかり激昂からさめた百合子は、「もう、いいわ」と呟いた。

「もういいって?」
「言葉通りよ。もう、いいの。浅倉くんは、悔しいけどあの女と結婚する。その未来はもう、変えられないもの」

 だからといって、素直に祝福はできないけれど。百合子はそう、小さく笑んだ。

「もう、私にできるのは、生まれてくる子供が、浅倉くんに似ていないことを祈るだけだわ。そうすれば彼だって、あの女の本性に気づくでしょ」

 サバサバと言い切った百合子に、サトルはまだ不満そうだったが、すべて黙殺した。

 そうしなければ、決心が鈍ってしまいそうだった。サトルの口車に載せられて、きっと脅迫まがいの行為に手を染める。

 そんな未来が鮮明に描けてしまったから、百合子はそっと、サトルから離れようと決意した。

いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。