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「みんな愛してるから」第二章 百合子⑪

 平和な街で起きた大事件も、犯人が現行犯で逮捕されていることもあって、すぐに風化していった。とはいえ、百合子はある意味当事者と言えなくもないので、詳しいことを調べていた。

 男が夏織の住むマンションに当たりをつけられたのは、友人がSNSに載せた写真がヒントになったらしい、という話を聞いて、葬儀で一際大声で泣いていた女を思い出した。

『私のせいで!』

 きっと彼女の写真が、住所を突き止めるきっかけになったのだ。その責任を感じて、ああいった醜態をさらすことになったのだろう。

 夏織が死んだ一件には、サトルも百合子も関係ないことがわかって、ホッとした。

 だから、何のためらいもなく文也に話しかけた。

「浅倉くん。ちゃんと食べてる?」

 夏織が横からかっさらっていく前と同じように、姉御肌をアピールしながら、声をかける。

 周りが百合子の行動に、眉を顰めて噂話をしているのは知っている。大嫌いな女が死んだのをいいことに、またみっともないアプローチを再開したのだと。

 言わせておけばいい。百合子は文也のことを、心から心配して、食事に誘っているだけだ。

 文也はまだ、心ここにあらずといった様子だ。仕事に集中しているときはいいが、休憩時間はぼんやりとしている。

 現実に早く目を向けさせなければならない。

 女は夏織だけじゃない。ここにも、とびきりのいい女がいるわよ。

 百合子は文也の手を引いて、レストランに行った。食欲がないと言う彼に、「少しでも食べなきゃ!」と勝手にステーキを注文する。

 文也の目には生気がなく、食事も機械的に摂っているだけだ。彼は注文した料理をほとんど残したが、百合子がすべて食べつくすので、問題はない。

 四十九日が過ぎ、季節が秋になり、やがて雪のちらつく季節になっても、文也の調子は相変わらずであった。

「浅倉くん。今日は何食べたい? 私はお肉がいいなあ」

 無反応な文也の腕を強引に引っ張って、百合子は外に連れ出す。タクシーに乗せ、繁華街へと繰り出した。

「今日は、お酒でも飲みましょ。ぱーっとやらないとね、ぱーっと」

 百合子はあえて、騒がしい居酒屋を選んだ。これまでは、二人きりになれる店を選んでいたのだが、文也の気晴らしには、賑やかな方がいいかもしれない、と考えを改めたのだった。

 デートではなく、ただ文也を慰めたいだけ。そう言い聞かせて、百合子はチェーン店の扉をくぐった。

 百合子はよく食べ、そして飲んだ。文也はやはり、ほとんど食事に口をつけていなかったが、百合子が勧めるまま、酒はよく飲んだ。

 文也がアルコールを摂取する姿を、百合子は久しぶりに見た。真っ白で生気のなかった顔に、赤みが差す。元気になったみたいだ。それが嬉しくて、百合子はどんどん飲ませた。

 結果、文也は泥酔した。百合子は彼の肩を支えながら、タクシーを呼び止める。

 一人暮らしを継続していてよかった。

 別に、やましいことをしようというのではない。ここからなら百合子の家が近いし、ひとりでタクシーに乗せるのも心配だから、自宅で介抱しようと思っただけだ。

 百合子は文也の身体をぎゅうぎゅうと車内に押し込むと、自宅の住所を告げた。

 マンションの前までつけてもらって、降車する。エレベーターで上へ。ふうふう言いながら、文也を肩に乗せて支える。

 どさりと彼の身体を、ベッドの上に横たえて、一息つく。

「う……ん」

 文也が呻き声をあげた。掠れたその声は色っぽくて、百合子はドキリと胸がざわめいた。

 サトルくんには悪いけれど、やっぱり私は、この人が好きなんだわ。

 そっと彼の頬に手を触れ、衝動のままに、唇を寄せた。触れ合う一瞬前に、文也の口が動く。

「かおり、さん……?」

 今は亡き、婚約者の名前を彼は呼んだ。百合子はぴたりと動きを止め、へなへなと座り込んだ。

 文也はそのまま、深い眠りについた。

「死んでもまだ、あんたは私の邪魔をするのね」

 ぼそりと百合子は言った。涙は出なかった。代わりに乾いた笑い声が漏れた。

 死んだ人間には、勝てない。文也は夏織に一生、囚われたままで生きていくのだ。

 やり場のない怒りと憎しみを、百合子は拳に込めて、床を一度、強く叩いた。


 翌土曜日、目を覚ました文也は、自室ではない場所で眠っていたことに、驚いていた。そして、部屋を見渡して、ぼうっと座り込んでいる百合子を見て、びくりと肩を揺らした。

「わ、渡辺さん……?」

 おっかなびっくり声をかけてくる文也に、百合子は一晩中眠れなかったために、充血した目を向け、にこりと笑った。

「安心して。何にもなかったわ」

 文也は百合子の言葉を、信じていない様子だった。だが、百合子の衣服が昨日職場で見たものと同じで、乱れていないのを見て、ほっと息を吐いた。

「もう、いいの……浅倉くんは、古河さんのことを、一生忘れられないんでしょう?」
「……百合子さん……」

 自分の負けを認めたところで、文也は百合子の名前を優しく呼んだ。

 ずるいじゃない。

 百合子の涙腺が緩む。

 ようやく諦められると思ったのに、そんな風に呼ばれたら、未練が残ってしまう。

 百合子はごしごしと目を擦り、文也に背を向けた。もう一度名前を呼ばれたら、抱きついてしまいそうだった。

「もう、行って」

 百合子が甘える相手は、もう文也じゃない。

 ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、百合子は長い溜息をついた。同時に、両の目からは涙が零れていく。

 目を閉じて思い浮かべる文也の顔は、いつもの優しい穏やかな表情だった。そして、オーバーラップするように、新しい恋の相手の顔が、重なって塗りつぶしていく。

 そのまま彼のことを想いながら、百合子は眠りに落ちた。次に目が覚めたときには、すでに辺りは暗くなっていた。

 飛び起きて、シャワーを浴びて、念入りに支度をする。そして例のバーへと、はやる胸を抑えながら向かった。

 扉を開けると、彼だけが光り輝いて見えた。名前を呼ぼうとしたが、今までと違う気持ちが入り込んでしまって、百合子の舌は上手に動かない。

 気づいて。

 そう念を送ると、青年は扉の方を見た。百合子の存在に気がつくと、ぱっと嬉しそうに笑う。

「百合子さん!」

 ああ、この声が聞きたかった。目を閉じて、反芻する。耳の奥に、記憶の中にこびりついた男の声を、かき消してほしい。

 目を開き、百合子はしっかりと、彼の姿を捉えた。

「サトルくん」

 近づいてきたサトルの手を、百合子は取った。強く引かれて、抱き締められる。

「会いたかった……会いたかった、百合子さん」

 ヒロインになった気分だった。熱く抱擁され、愛を囁かれる。バーの客に注目され、百合子は「恥ずかしいわ」と言って、サトルの腕を抜け出す。

「あのね、サトルくん……私には、もうあなたしかいないの」
「わかってるよ、百合子さん」

 二人はカウンター席に座った。今日はもう、後ろめたい相談事は何もない。マスターは、失恋してやけ酒をしている百合子の姿を見ていたから、上手くまとまったことに、感慨をもって頷いていた。

 彼の差し出したカクテルは、二人の今後を祝福するような、きれいなピンク色だった。乾杯してあおれば、甘い味が口いっぱいに広がる。

「このままキスしたら、甘くて溶けちゃいそうだね」
「やだぁ」

 まだ一杯目だというのに、百合子はサトルの口説き文句に酔った。祝い酒だとばかりに、サトルは何杯もカクテルを注文して、百合子にごちそうする。

 店を出る頃には、すっかり出来上がっていた。前夜の文也と同じくらいの千鳥足で、百合子はサトルの肩を借り、どうにか通りに出る。

 サトルがタクシーを拾い、百合子を乗せた。そのまま彼は立ち去ろうとしたのだが、百合子はサトルの袖口を離さなかった。

「まだ、一緒にいたいの」

 アルコールで潤んだ瞳を向けると、サトルは苦笑しながら、隣の席に乗り込んだ。

 百合子は自宅住所を告げて、うふふと幸福な気持ちで微笑みながら、サトルに甘えた。髪の毛を撫でてくれる彼の手は、とても優しい。

 部屋に足を踏み入れた瞬間、百合子はサトルに抱きついた。

「サトルくん……愛してる、わぁ」

 呂律が回っているか怪しい状態だったが、サトルには伝わっていた。力強く抱き返される。

 キスしてほしい。抱いてほしい。背伸びをしても、背の低い百合子は自分から、サトルにキスをすることができない。

 唇を尖らせて、キスしてほしいとねだるが、サトルは首を横に振った。

「どうしてよお!」

 叫んだ百合子の唇に、サトルは人差し指をあてて「静かに」と黙らせる。

「百合子さんが、酔っぱらってるから」
「酔ってないもぉん」

 サトルは百合子の腰に手を添えて、紳士的な振る舞いでベッドへとエスコートする。

「お酒の勢いで、俺は百合子さんとエッチしたくないんだ。初めては、大切にしたい。キスも」

 ベッドの上に横たえられ、百合子の元には睡魔が襲ってくる。目を開けていられなくなる。

「今日は、あなたを抱き締めて眠るだけにするね」

 おやすみ、と優しい声がかけられたときには、百合子はすでに、夢の世界に足を踏み入れていた。



いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。