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「岡野大嗣の短歌教室」を受講して(後編)

思ったより長くなってしまったので、二つに分けました。短歌と出会ったきっかけと教室を受講した理由が前編、そこで学んだことがこの後編になります。

今年の5月、「岡野大嗣の短歌教室」開催の告知を、たまたま私は目にしました。

あの岡野さんが見ている世界を覗けるかもしれない。そして自分も短歌をつくれるようになるんじゃないか。一瞬で気持ちが沸き立ったのを覚えています。

一方で、迷いもありました。私は、短歌のことも岡野さんのことも、全く詳しくなかったのです。

岡野さんの歌集とAmazonの関連商品に出てきた木下龍也さんの歌集しか読んだことのないような自分が受けていいものなのか…
すでに短歌をつくっている人が、さらに技術を高めるための授業なんじゃないか…
岡野さんの熱心なファンの方が受けるべきなのでは…

いや、それでもこの教室を受けよう。迷いながらも、私は決めました。

今回のチャンスを逃したら、この先も短歌の世界に足を踏み入れることなく、ずっと「生きのびる」言葉の世界だけを歩むことになるような気がしたのです。不思議な巡り合わせか、コロナの影響でオンライン開催になっていたことも、私の背中を押してくれました。

ここから約2ヶ月間、短歌を毎日書き続ける日々が始まります。


短歌は、思っていたよりも自由だ

最初の授業で岡野さんは、短歌の歴史や技術の説明ではなく、自分は短歌をどのようなものだと捉えているか、どのようなやり方でつくっているかというお話をしてくださいました。5・7・5・7・7という短歌の定型に関しても、厳密な音数ではなくリズムがあっていればいいと。

短歌って、想像していたよりも、ずっと自由でいいんだ。このお話が、私の心をずいぶんと軽くしてくれました。短歌に詳しくない自分にもつくれそうだと思えてきたのです。

世の中にある短歌入門などには、どうすれば良い短歌をつくれるかということは書いているのですが、まずどこから手をつければいいのか、どんなことに目をつけて短歌にすればいいのか、あまり書かれていないような気がします。

ですが、岡野さんは「日常の中で心が動いたできごとをたくさんメモして、後から短歌の形にしていく」という一つのやり方を教えてくれました。

短歌のタネ。岡野さんはこのメモのことを、そう呼んでいました。

毎日、短歌を提出する際も、短歌にできていないタネをそのまま送ったり、出来上がった短歌と一緒にタネも送ったり。

そうすることで、技術的な面だけでなく、日常のどんなところに目をつけているか、といった段階から感想やアドバイスをいただくことができました。


これまで取りこぼしてきた感情たち

日々の中で揺れ動く、ささいな感情の変化を忘れないようにしたい。思えば、そんな気持ちはずっと前から私の中にありました。しかし、これまで日記や写真などの手段を試みたものの、どうもしっくりとハマることはなかったのです。

もしかしたら、それが短歌だったのかもしれないと思いました。意外なところに答えは転がっているものですね。

心が動いたできごとを短歌にすることで、忘れないように残しておくことができる。加えてもう一つ、毎日の作歌を続ける中で、想定外の変化がありました。

心理学用語に「カクテルパーティ効果」というものがあります。パーティの騒音の中でも話し相手の声だけは判別できるように、人間が無意識に自分と関係のある事柄を選択して聞き取ろうとする脳の働きのことです。

『考具』という本では、これを応用した「カラーバス効果」が紹介されています。たとえば「今日は赤!」と意識する色を決めて街を歩くと、普段は気づかなかった赤いモノが自然と目に飛び込んできて新しい刺激になるというのです。

短歌をつくるようになった私は、まさにこの状態。なにか短歌のタネになることはないだろうか、と考えながら過ごすことで、小さな感情の動きにも敏感になってきました。自分の行動が変わったわけではありませんが、世界の見え方が変わり、解像度が上がったような気がします。


要約ではなく圧縮

そうして集めた短歌のタネを5・7・5・7・7のリズムに収めていくときは、タネの内容を要約するのではなく「圧縮」する。岡野さんがそう言っていたのを、よく覚えています。

タネを短歌にするべく、いろんなパターンを考える中で、どれをもって完成とするのか。最初のうちは、その判断基準がわからず、何度か岡野さんに質問をしました。岡野さんから伝えられた基準は一貫しています。タネを書き残したときの心の動きに最も忠実であること、それを目指したほうがいいと。

実際につくってみると、ついついタネの文字数を削ってそのまま収めようとしたり、タネの内容がどんなことなのか説明しているだけの短歌にしてしまいます。でも、それだと想像の余地がないので、あまり面白くないんです。「どんな心の動きがあったのか」という核心とは関係ない無駄な部分は削りつつ、限られた文字数で最も濃い内容が残るように、タネとして残した文章に捉われすぎず、いろんな表現方法を試していく。そうすることで、心の動きを追体験できるような、広がりのある短歌になっていった気がします。

仕事に役立てようと思って短歌を始めたわけではありませんが、要約ではなく圧縮という考え方は、ビジネス文書を含むあらゆる文章表現に通用すると思います。『言葉ダイエット』という本にも書かれているように、何かを伝えたいときは、まず無駄な言葉を削る。ただ、そうするとあまりに味気ない文章になることがあります。そんなときは主題に立ち返り、文字を削るだけではなく圧縮して、本当に伝えたいことをもっと濃密に伝えるための表現ができないか考える。推敲やリライトをしてていると、元の文章を残しつつどう変えるか、という考えになりがちなんですが、同じ内容でも全く別の伝え方ができないだろうかという視点を持つのは大事ですね。

あと単純に、5・7・5・7・7の定型に収めようと悩むのは頭の体操になって楽しいです。制限があるからこそ面白い。たぶん、自由詩だったら考えられる余地が広すぎて続かなかった気がします。


自分のために書く言葉があっていい

最後に、短歌を教わる相手が岡野さんで良かったと思った、もう一つの理由があります。それは岡野さんが短歌を「誰かに見せるためではなく、自分のために書いている」と言っていたこと。

言葉を紡ぐということは、ごく私的な日記などを除いて、受け手の存在を認識せざるを得ない行為です。仕事で文章を書くとなると、一層その認識は強まるでしょう。さらにはSNSでも独り言を呟いているようでいて、心のどこかにいいねを欲しがっている自分がいます。

岡野大嗣さんは、穂村弘さんがやっているような投稿短歌の企画でも幾度となく選ばれ、単著の歌集を2冊も出している歌人です。そんな人も、自分のために短歌を書いている。誰かのために書くわけではないこと、それでも良い短歌になるよう丹精を込めることは矛盾しません。

もちろん、身近な誰かに読ませるために、たくさんの人に読んでもらうために短歌を書くという動機も、すべて等しく尊いものだと思います。でも、私にとっては自分のために書いてもいい文芸があるということが、嬉しかったのです。

現在は受講当時のようなペースでは作歌しておらず、積極的に公募に出すわけでも、歌集を出したいという野望があるわけでもありません。それでも短歌という存在はお守りのように、これからも私の人生と共にあるような気がしています。

もし、また岡野さんが短歌教室をやるということがあれば、短歌のことをよく知らなかった人も、ぜひ参加してみてほしいです。


教室でつくった短歌 自選10首

あの猫がそれぞれ持った縄張りの境界線にこの家はある

リレーの選手がバトンを待つように息子の手を握り返す父

商品をカートに入れてしばし置く 何かが変わりそうな気がして

小便器の上に書かれてる型番 これがのちのち伏線となる

念のため自動ドアには手をかざす心配性のダースベイダー

見るからに寡黙な親父がやる店のトイレにピースボートのポスター

お互いの発射ボタンを握りしめ、抑止力として僕ら生きよう

ただ春は暴力的に移りゆくポカリから金麦の青へと

どうせなら最初から売れそうにないバンドをやってほしい、君には

東京も端までくれば田舎だね そう言う君はうれしそうだね

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