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曖昧な記憶と想いの存在証明

あなたは最近手紙を書いただろうか。
現代社会においては、電話やメール、さらにSNSの急速な発達により手紙というコミュニケーションツールを用いることはほとんどなくなったように思える。

それでも僕は手紙が好きだ。
なぜなら手紙は物理的に残しておこうと思えば、いつまでも残るからである。電話は音声コミュニケーションのため、発言した内容が次の瞬間には消えている。お互いの記憶が薄まってしまえば、その発言が実際にあったのかどうかすら分からなくなってしまう。
メールやSNSは表記コミュニケーションのため、文面には残るが携帯の機種変更やアカウントの削除などで消え去ってしまう。誰しも一度はLINEの引き継ぎに失敗して、残しておきたかったあの人との会話がなくなった経験があるのではないだろうか。
さらにメールやSNSの優れていてダメなところは、送信側がなにを送ったのか確認できるところである。なにを送ったのか確かめられるところは良い側面もあるが、一方でひと時の気の昂りで送った内容を後で読み返して恥ずかしくなったり、後悔してしまう場合もある。そのような点は良くない側面ではなかろうか。

手紙はその全てを解決している。音声コミュニケーションではないので、確かに文面に残るし、送った側は全く同じ内容を控えていたり、写真を撮ったりしない限り、なにを書いたのかほとんど忘れてしまう場合が多い。このような点で、手紙はとても優美なコミュニケーションだと僕は考える。

5年前の手紙

8月末に僕の実家がリフォームされることとなった。複雑な家族関係のため、詳しいことは記述しないが今の実家には誰も住んでいない。つまりは空き家になっているのだ。都内の良い立地の物件が空き家になっていることは、誰がみても勿体無い状態で、父親がその物件をリフォームして賃貸にするという決断を下したのは合理的だと思う。
しかし、やはり幼少期を過ごした実家の姿がなくなってしまうのは寂しさもり、僕個人としては複雑な心境でもある。さらに中のものを整理して断捨離しないといけないのは、精神的にも身体的にもキツい作業であり、あまり気が乗るようなものではない。それでも期日は迫ってくるため、しなくてはならない。

そんなこんなで実家の整理をしていると、ナイキの靴を買ったときに入っていたオレンジの箱が押し入れが発掘された。その箱はもうボロボロで、もはや箱の形を維持するのに精一杯というような様子だったが、それでも中身をしっかりと守ろうとする箱としてのプライドを感じるような、そんな雰囲気を纏っていた。

その箱は僕にとって馴染み深いものだった。中身は僕がこれまでの人生で受け取ってきた全ての手紙である。中学1年生の頃から、様々な状況で渡された手紙が入っており、それは自分という人格を形成してきた軌跡のようなものである。

もう今では亡くなってしまったおばあちゃんとの手紙や、中学1年生の時に初めて告白した女の子からの返事の手紙、はたまたカナダにいた高校時代に日本から送られてきた母親からの手紙や、大学のサークルを引退する時に後輩からもらった手紙など、その種類は多岐にわたる。

その中でも僕が最も思い入れが深い手紙が5年前にもらった手紙である。
2018年にとある事情が偶然にも重なった時期があり、僕の精神は酷く疲弊していた。当時の感覚では、自分の味方が世界からどんどん消えていってしまうような感じで、とにかく僕は寂しかった。そして味方を強く欲していた。

そんな衰弱していた時期に恋をした女の子からもらった手紙である。その女の子とはあまり関係が上手くいかず、お互いが不幸になってしまう結末を迎えてしまった。その不幸に耐えきれず、僕は長野の森の中に身を潜め、ひっそりと暮らしながら精神を回復させた。関係はうまくいかなかったけれど、彼女とはとても細い線で繋がっていて、その唯一のコミュニケーションが手紙だったというわけだ。

手紙は全部で3通受け取っていて、その内容は今ではなんてことのない相手の近況が記してあるものだった。それでも当時のぼくは、彼女がどんな生活を送っていて、苦労はしているけれどなんとか幸せに向かっているという状況がわかっただけで、多幸感に満たされた。

当時暮らしていた森の中の家にはポストがなく、彼女からの手紙がうまく届かないのではないかと心配した僕は、木材を調達し、組み立ててから色を塗ってポストを作った。生活費を稼ぐためにバイトをしてたコーヒー屋から帰ってきて、そのポストを開ける時は毎回緊張感があり、なにも入っていない日には少しだけ落ち込んだりもしたものだ。それほどに僕にとって彼女からの手紙は尊いものだった。

手紙のやりとりはいつの間にか途絶えてしまい、彼女とも音信不通になってしまったが、今でもその手紙は大切にナイキの靴箱にしまってある。おそらく彼女はもう手紙のやり取りをしていたことすら忘れてしまっているだろうが、この手紙がここにある限り、確かに5年前の夏の想いは存在したのだ。

曖昧な記憶と想いの存在証明

人の記憶は酷く曖昧である。時間経過とともに朧げになっていくものだし、人はある種そのようにして身を守っているのだから仕方がないものだと思う。それでも、あの日あの時あの瞬間が確かに存在したという証明を少なからず持っておいても良いのではないだろうか。たとえその時間が未来に繋がっていないとしても、ふとした瞬間に思い出して、確かにそこにはあったんだということを再確認できても良いのではないだろうか。

これからも僕は大切な想いは手紙にしようと思う。その一瞬が時間という渦に飲み込まれ、誰も覚えていなくなっても、その手紙がある限り僕の想いの存在は証明され、相手が手紙を保管している限り、相手もまたその想いを確かめることができる。そうして、ふとした時に僕のことを思い出してくれるなら、そんなに幸せなことはきっとないだろう。

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