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人生の諸選択における基準の話

 人はなにかを決める際に、なにを基準として決めているだろうか。

 例えば、中学校から高校に進学する際には、自分の学力や経済的環境をもとに自分の適した学校を選定し、進学する人が多いのではなかろうか。

 また、高校から大学に進学する際には上記のパラメータの他に、自分が学びたい学問の専門性の有無、その大学の特色などといった自分自身の興味関心ということも大きく関係してくるだろう。

 就職においては、これまでの選択よりもさらに複雑である。教育機関の選定では、それぞれ3年や4年といった一定の期間が設けられているが、就職というと己が辞める決意をしない限り遥かに長くその環境に浸かることになる。そのため、自分の興味関心の他に、経済的安定性、ワークライフバランスなどといった多種多様なパラメータを意識して選定することになる。多くの学生は、経団連と社会が設定している流れに身を任せ、就職活動をし、最終的に内定を得て就職する。それが本来の自分が望んでいたものにしろ、そうでないものにしろ。

 このように人生の重要な岐路において、気にかけるべきポイントは多く存在し、それ以外の選択、しばしばそれは食事であったり、恋愛であったりするわけだが、そこにももちろんこのようなパラメータが存在する。


なにをもって選択しているの?

 では人はこれらの選択を行う際に、一体どんな基準を設けているのだろうか。おそらく、明確な基準を設けずにその場でなんとなく決めている人も多く存在するだろう。正確には彼らの中にはなにかしらの基準があるが、彼らがそれに無自覚であるということだが。

 その基準がなにであれ、明確に自分の中で意識することができる人の人生は豊かになりやすいと私は考える。なぜなら、その基準は信念でもあり、そのような思考を経てから下された選択には迷いがなく後悔も少ないからだ。

 後から「あっちの方が条件もいいし、成功したかもな〜」と思ったとしても、「まあ自分は自分なりの考えの上で決めたし、やっぱりそこには譲れないものがあったから、これはこれでいいよね。」と思えるだろう。


文学性という基準 

 僕の人生における基準は「文学性があるかないか」である。

 文学性という単語を別の言葉で説明することは難しい。僕自身も、抽象的にしかつかんでおらず、具体的にその言葉がはっきりと示すものを理解していない。

 例えば、真夏の公園でよく冷えたハイネケンと食べるサンドイッチは文学的だし、早朝4時に女の子の家から追い出されて雨に濡れながら一人で海を眺める時間も文学的だ。または、人生に疲れてドアノブにかけたベルトに首を通すことも文学的と言えるかもしれない。

 このように見ていくと、完全に主観的な基準であることがわかると思う。でもこれは僕自身が選択の際に採用する基準だから、僕だけがわかればいいのだ。重要なのは僕がしっかりと納得して理解していることである。

 先ほど挙げた例は全て僕が通過してきたことだが、大きな人生の転換点としての例では、中学3年生の時に沖縄に転校したのだって、大学でカナダから日本に帰ってきたのだって、一般的な就職活動をしないことを選んで焙煎士になることを選んだのだって、全てこの基準に則っている。これらの話はまた独立した記事でゆっくりと書きたい。

 僕は24歳だけれど、過去を振り返るともう少しああしとけばよかったかなあと思うことが結構ある。正確には、ああしとけばよかったのにといった客観的な批判みたいな感覚だが、とにかくそういう反省みたいなものはある。

 しかし、結局はまあ自分が選んでるからそんな賢い選択は取れるはずないよなあと思って後悔は全くしていないことにも気づく。文学的な選択のほとんどは賢くない選択であることを徐々に学び取ってきてはいるが、今はまだ目を背けたい。


まとめ

 このように、自分の選択の軸を持っていると納得できるし、それは無駄な後悔をしなくていいわけで、自分の思考リソースを他のことに裂けるからストレスも圧倒的に少なくなると僕は思う。

 人それぞれ違う基準があって、それでいい。むしろ人それぞれ違う基準を持っていたほうが、世界に多様性が広がって、もっと面白くなると思う。

 重要なのは自分自身がその基準に納得し、理解していることである。




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