見出し画像

ちひろさんに教えてもらったこと

2月の頭に映画「ちひろさん」の試写会に行った。この映画は、2月23日より劇場とNetflixで同時公開される作品である。主演は有村架純で監督は今泉力哉が務める。僕は今泉力哉作品がどれも好きなので、この作品の原作は知らなかったが、とても楽しみにしていた。ちなみに有村架純は映画「花束みたいな恋をした」を見た時に惚れてしまった。

試写会にて行われた舞台挨拶では撮影時の裏話や、それぞれのキャストが捉えるこの映画についてなど、面白い話がたくさん聞けて大満足だった。しかし舞台挨拶が終わり、本編が始まると予想以上に物語に感銘を受けた。今日はその映画の内容というよりも、鑑賞後に考えたことを書き記していきたい。ネタバレは出来るだけ含まないつもりではあるが、気になる方は先に映画を見て欲しい。そうは言っても、映画の粗筋くらいは紹介しておこう。公式が出している粗筋は以下の通りだ。

ちひろ(有村架純)は、風俗嬢の仕事を辞めて、今は海辺の小さな街にあるお弁当屋さんで働いている。元・風俗嬢であることを隠そうとせず、ひょうひょうと生きるちひろ。彼女は、自分のことを色目で見る若い男たちも、ホームレスのおじいさんも、子どもも動物も・・・誰に対しても分け隔てなく接する。
そんなちひろの元に吸い寄せられるかのように集まる人々。彼らは皆、それぞれに孤独を抱えている。厳格な家族に息苦しさを覚え、学校の友達とも隔たりを感じる女子高生・オカジ(豊嶋花)。シングルマザーの元で、母親の愛情に飢える小学生・マコト(嶋田鉄太)。父親との確執を抱え続け、過去の父子関係に苦悩する青年・谷口(若葉竜也)。ちひろは、そんな彼らとご飯を食べ、言葉をかけ、それぞれがそれぞれの孤独と向き合い前に進んで行けるよう、時に優しく、時に強く、背中を押していく。

孤独とは不幸か

この映画で取り上げられているテーマが孤独についてだ。登場人物はみんな生活や過去に問題を抱えていて、それでもコミュニティに属している。ちひろさんも例外ではないのだが、彼女は一見飄々と生きているように見える。

それは彼女が孤独であることに寂しさや劣等感を覚えていないからだ。彼女にとって孤独とはむしろ自分を守るためのものであり、人と適切な距離を取ることによって、自分の状態を調整し、周りとの関係をより良いものしているように思えた。

この考え方にはとても共感した。僕自身も1週間まるまる人といると酷く疲れてしまうし、その疲れた状態によって周りの好きな人を傷つけてしまったことも数え切れないほどある。好きな人を傷つけてしまうことは悲しいし、それによって取り返しがつかない状態になってしまった時は自己嫌悪に陥る。そんな自分にも他者にも不利益な状態を生み出さないように、自分の時間をしっかりと取って調整する時間、つまり孤独の状態が必要なのだ。

周りにいる好きな人の中には、会社の同僚も友達も含まれるし、家族や恋人も含まれる。どれだけ好きかは関係なく、誰かとずっと一緒にいるとそれは僕を酷く疲れさせる。こう書いてしまうと、なんだかとても冷たい人間に思えるが、それでも僕には孤独が必要なのだ。孤独な状態がある方が幸せだし、もし誰かとずっと一緒にいるか、ずっと独りきりか選べという究極の選択を迫られたら、僕はおそらく孤独を取ると思う。もしかしたら僕は結局自分のことが最も好きなのかもしれない。

「みんなで食べるご飯も美味しいけど、ひとりで食べても美味しいものは美味しい」

これは映画の中のちひろさんのセリフである。僕はこのセリフがとても好きだし、一定の孤独を好む理由もここにあると思う。別に僕だってずっと独りでいたいわけじゃない。ただ、幸せに生きるためには独りになる時間が必要で、その時間の中ではご飯だって普通に美味しいのだ。

有村架純はこの絶妙なニュアンスを見事に演じている。映画を見終わった後、僕はなんだか許されたような感覚を覚えた。人間、独りでも良いじゃん。それであなたが幸せなら良いじゃん。そんな風にちひろさんに話しかけられた気がした。


そこはかとない映画です

舞台挨拶の終盤に各キャストが映画の概要を求められた際、小学生のマコト役を演じた嶋田鉄太君が言った言葉だ。

見に来ていたお客さんは、「この子急に大人びた発言するな」と思ったようだが、のちに今泉監督がこの発言について解説をしてくれた。

「さっきの鉄太が言ったそこはかとない映画というのは、主題歌であるくるりの曲からの引用なので、とてもお洒落なコメントです。」

なるほど。予告ではたしか主題歌も流れていたと思うけど、歌詞までは確認していなかった。配信もこの日にはまだされていなったので、帰り道に聞くことは出来なかったが、今ではもう聞くことができる。改めて歌詞に注目して聞いてみると、確かにそこはかとないという言葉が繰り返しでてくる。

そこはかとないという形容詞は、日常的に使う言葉であるが具体的にどんな意味なのか考えたこともなかった。辞書を引いてみるとこんなことが載っていた。

[形][文]そこはかとな・し[ク]何となくある事が感じられるさま。どこがどうということでない。

ああ、なんと文学的な言葉だろうか。どこがどうということでないのだが、素敵なニュアンスを伝えてくれる。この言葉自体にそこはかとない良さがある。

先日、僕が度々使う「文学性」という言葉の定義について話し合う機会があった。これまでそんなことを聞かれたこともなかったので、自分の中でも具体的な表現をしたこともなかった。改めて聞かれると、自分でも上手く説明できなかったのだが、多分うまく説明できないところが魅力なんだろうなと思った。

そこはかとないという言葉は、まさにその良さを表現していると思う。つまり文学性とはそこはかとなさなのだ。どこがどうということでもないのだけれど、なんとなく良いし魅力的。そんな状態を指す言葉だ。

普段自分が感じていることを、映画や本や音楽を通してインプットされた情報と共に、他者と話して更なる理解に昇華する作業はとても美しいと思った。生活の中の貴重な時間だと思う。


ぜひ、ちひろさんに会ってみてください

そんな物語もキャストも主題歌も素敵な映画「ちひろさん」。ぜひ一度見てほしいし、ちひろさんに会ってみてほしい。きっと僕のように心が少し楽になる人もいると思うし、世界の見方も少しだけ変わると思う。そんな映画です。

劇場公開、Netflix配信は明日2/23(木)からです。ちなみに、劇場に足を運んだ人だけ見れるポストクレジットシーンがあります。最初から劇場に観に行くのも良いし、Netflixで一度みてから劇場にもう一度見に行きたくなった人がいたら誘ってください。一緒にちひろさんに会いに行きましょう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?