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違和感

店の壁からは油と煙草の煙が染み付いたような異様な匂いがした。この店を予約したのは自分の向かいに座っている男だが、確かにもつ煮込みは年季の入った汚い店内を気にさせないほど美味しかった。

昔は大学構内の喫煙所でマルボロを吸っていた彼も、今ではすっかり電子タバコを咥えている。スーツに匂いがつかないようにするためだと、どこか自慢げに話していた。電子タバコを吸っている人間は、副流煙が出ないからと言って周りを気にしない人が多いように感じるが、その独特の匂いは時に周りを不快にさせることを知らないのだろう。しかし、そもそも喫煙可能店に入り、灰皿に山になっている吸い殻を目の前にしては僕もなにも言うことはできない。

「いやー、やっぱり部下を持つと疲れるわー。なんで俺が仕事以前の常識を教育しないといけないんだよ。Z世代と仕事すると価値観違いすぎて逆に面白いわー。」

彼が電子タバコを吸い込み、毒と共に吐き出した。年齢的定義で言えば、俺もお前もZ世代だろという指摘をしたくなるが言葉には出さない。

「まあでも、夏のボーナスも去年よりだいぶ上がったし、これが成長と責任ってやつかねー。てかお前は最近仕事どうよ?コーヒー屋流行ってんの?つかまだバリスタ?として店立ってんの?」

一体いつからだろうか。彼が僕を見下しているように接してくるようになったのは。大学時代は同じ学科で毎日のように遊んでいた。サークルこそ違ったものの、ほとんどの授業を一緒に受けていたし、当時は居心地が良かったと思う。
大学3年目のゼミ選択で、僕は卒論を書くことを選択し研究に勤しんだが、彼は卒論を書かずとも卒業できればいいと考えていたようで、夏のインターンをきっかけに、学生インターンとして企業で働いていた。

それでも僕らは定期的に昼食を共にし、ゲームや映画の話で盛り上がることができた。進む方向が違ってきても、共通点がある限りこれまでと変わらず過ごすことができた。
それに僕がコーヒーに興味を持ち、就職せずにそらを仕事にしたいと打ち明けた時も、真剣に応援してくれていた。少なくとも僕にはそのように見えた。

就職してからも頻度は減ったものの、定期的に僕らは映画を見に行ったり、遊んだりした。僕は仲間とコーヒー屋を立ち上げ、儲かってはいないものの、好きなことを仕事にできた誇りを持っていた。そして彼もその様子を聞いてくれたし、時にはアドバイスをくれたりもした。

しかし就職してから4年ほどが過ぎると、彼との話題は彼の仕事の愚痴が多くなった。僕は聞き役に徹していたが、内心は嫌なら辞めてしまえばいいのにと思うことも少なくなかった。彼はひとしきり愚痴を吐くと、取ってつけたかのように、それで仕事はどうよ?と今では興味なさげに聞くのだった。

「今は店にはもう立ってないんだよね。どちらかというと裏方みたいなことしてる。まだまだ儲かってないけど、まあ今が踏ん張りどころかな。でも結構考えることは多いよ。」

もう店には立っていないことは前回も前々回も言ったが、それでも彼は聞いてくる。仕事どうよ?という質問に詳細に答えることも出来るが、業界も職種も違いすぎる場合、話しても伝わらないことの方が多い。それを考慮するとえらく抽象的な答えになってしまい、そんなことを話している自分に辟易とする。

「なるほどねー。今が踏ん張りどころかあ。まああんまり考えすぎるなよ。もっと気楽に生きてこうぜ。あ、今度一緒にグランピング行かね?なんか先輩から良いとこあるって聞いたんだよ。」

彼は吸い終わった電子タバコを灰皿にいれてから、店員にビールを頼んだ。その声は普段よりもやかましく聞こえた。

「グランピングかあ。ちょっとこの夏イベントとか出るから忙しくて、無理かもだけどスケジュール確認してるみるわ。」

嘘だ。イベントに出るのは本当だが、スケジュールが空いていないわけではないし、確認する気もない。本当は、彼と一緒に行くグランピングというエンタメにかけるほどの経済的余裕がなかった。つまらない見栄だ。

「おー、わかった。まあ2週間前くらいに言ってくれたら多分調整できると思うから、行けそうだったら教えて。てか、結構疲れてる?普段にましてテンション低くない?なんか悩んでることあるなら、話してみろよ。相談のってやるからさ。」

僕は彼の言葉を聞き流しながら、テーブルの裏を指先で触っていた。端から中央まで指を滑らせていくと、一箇所ベタベタする部分があった。僕はその部分に指を何度も擦り付けた。摩擦により無くなると思っていたその粘着性は、僕が擦れば擦るほど増していった。

「てめえに相談できることなんてねえよ。」

僕は気付けば指を動かし続けながらそう言っていた。そしてコップから水がこぼれるように、言葉が溢れ出した。彼は一瞬なにを言われているのか理解できていないように、こちらを見つめていた。

「相談乗ってやるからってなんだよ。いつからお前の立場は上になったんだよ。お前のその無意識的な優位性みたいなのが、言葉の端々から感じられて死ぬほど気持ち悪い。なんでお前に相談しないかわかるか?相談したところで、自分の話をしたところで、お前には理解できないって諦めてるからだよ。一企業の歯車に成り下がったお前に、そんなこと話しても伝わるわけがないからな。会社全体で見ればほんの一部でしかないお前が、うちの会社がとか語るな。主語を勝手に大きくしてんじゃねーよ。良い給料もらって、クソしょうもない小さい愚痴吐いて、休みの日には自分からはなにも生み出さない娯楽を享受して、そうやって脳を殺して生きたいなら勝手にそうして死ね。こっちはお前と違って、日々を生産的に生きないといけないし、そうできなかった一日の終わりには寝る前に死にたくなるんだよ。クソしょうもない人間に成り下がりやがって、その気持ち悪い電子タバコ吸いまくってさっさと死ね。」

僕がそう言い切ると、彼は困ったように電子タバコを再び咥えた。既に冷めきっていたもつ煮込みは、白く油が浮き始めていて気持ち悪かった。その油はドロドロとしていて、それはまるで僕の体から漏れ出たもののようだった。




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