人は鳥を殺した

人は鳥を殺した。
さえずりを殺した。
音楽を殺した。
だから、自分自身を殺した。

永遠に殺した。

("The power of Myth"より。私訳)

「音楽をやる奴らってさ」
「どいつもこいつも悩んで、悩んで」
「苦しんで、苦しんで」
「世間から外れちまった」

「ここにいる奴らは全員そうだ」
「じゃなきゃぁ来やしないだろ」
「こんなところ」

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「俺もそうだし、お前もそうだよ」

「鍵盤やドラムを叩いてるだろ」
「人を叩きたいのに」

「ギターを泣かせてるだろ」
「自分が泣きたいのに」

「他人も泣かせてる」
「・・・歌で、な」

「泣いてもらってるんだ」
「自分じゃ、泣きたくないからさ」

「ハハ」
「さみしいなぁ・・・」
「俺たちは」


クリスマスが過ぎた夜。ジャンカレーでシルバーズ・レイリーと再会した時、そんな話をした。僕は佐々木閑の仏教の話を思い出していた。


「病気や怪我、生まれによって」
「世間では誰にも受け入れてもらえない人がいる」
「誰にも受け入れられない人たち、彼らの受け皿なんです、仏教は」

「・・・」
「仏教と似てますね」
「音楽って」

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ライブの爆音で、レイリーに聞こえているかどうかは分からない。
でも、かまわず話を続けた。


「音楽とか酒場って、救いだったんですね」

「・・・」
「この店は特にそうだ」


人は、なぜ文章を書く。

力を手に入れるためか、金を稼ぐためか。

僕が最初に自分から文章を書き始めたのは、小学6年のときだった。

当時、不況で父が勤めていた工場が閉鎖され、車で一時間ほどかかる工場へ転勤となった。しかし父は、近代化されたその工場には向いていなかった。

同じ家で暮らしているのに、数ヶ月も声を聞かなくなった。鬱になり、会社に通えなくなる。二階で床に伏せたままの日が続いた。

「勇人、お母さんがいないあいだ、家にいてね」
「お父さん、首を吊るかもしれないから」
「そういう病気だから、、」
「勇人、頼んだでね」

父の容体と僕の元気とは関係がないと思っていたのだけど、知らぬ間にショックを受けていたのだろう。だんだんとクラスの輪から外れていった。いつの間にか皆僕から離れていく。毎日一人で給食を食べた。

「永田君の日記を読みたいと思います」

ある日、ふと担任の上沢先生が友達の日記を読んだ。

「ぼくはこの間、悪いことをして怒られて、罰として家の外に出されました。蚊と格闘すること数時間、『うるさいから入れ』と言われ、家に入りました」

「『これに懲りたらもう悪いことはしないように』」

「そう言われましたが、あのくらいで怒るなんて大人気ないと思いました」

「お父さんとお母さんは内心、心配していたようです。でも次はムヒを持って、ずうっと外にいてやろうと思います」

「心配するお父さんと、かゆい僕との根性比べをします」

クラス中が爆笑。なんて魅力的な文章なんだと思った。永田君は”ながしゅーちゃん”と呼ばれていたけれど、次の日から僕は、ながしゅーちゃんをお手本にして日記を書くようになった。

面白く書けたら上沢先生に読んでもらえた。
師匠が良かったからだろう。笑いを取れた。

「お前、面白いよな」

だんだんとクラスに馴染めるようになったのである。
とても嬉しかった。

そのうち、家にも友達を呼べるようになった。
しかし、小六男子だから、ぎゃーぎゃーと騒ぐ。

「ねぇ、ハット、二階行っていい?」

ハットとは、かつての僕のあだ名だ。
しかしまずい。

・・・二階には首をつりそうな親父が寝ているのだ。

「いかん」
「なんで? いいじゃん」
「お父さんが病気で寝てるで、いかん」
「ハットのお父さんって、病気だっただ?」
「うん」
「分かった、行かない」

しかし、何人かは約束を完全無視して二階へ上がり、父に話しかけていた。

「おじさん病気なの?」
「う〜ん、そうだよ」
「感染る?」
「感染らないよ」

「本当?」
「本当」

「本当に?」
「本当」

「本当に本当?」
「本当に本当だよ」

「本当に本当に本当?」
「本当だけど・・・」
「ゴホゴホ、もう下に行って」
「遊んできなさい、ゴホゴホ」

友達がうるさかったからかは定かではないが、父は起き上がるようになり、会社に通えるようになった。

父を助けようと働きに出た母は、「日生のおばちゃん」として頑張ってくれた。実に浜松地区で十位に入る成績を上げ、しばらく我が家はバブル経済を謳歌するようにもなった。

だから三浪しても平気だったのである。

人間万事塞翁が馬

悲しみに突っ込んでいった”ながしゅーちゃん”、親父に突撃した友たち。文章とか笑いとか自分自身とか、音楽にしてもそんなところから生まれるのだろう。

神話も音楽も文章も、悲しみをいとおしみ、うつくしむ。慈悲から生まれるのだ。

僕は、一人でいるのが寂しかったから文章を書いた。それが原点である。

ただ、誰にも相手にされなかった僕自身を、僕は好きだった。

悲しみのきわからは、神話が生まれる。傷ついた寂しそうな野良猫とか、みじめに負けたボクサー、薄汚れた駐車場の看板、もちろん苦しみの最中にいる自分自身も。

なにやら、肉体の輪郭から立ち上るモヤのようなものが見えるのだ。哀愁であったり、寂しさが形を持った蒸気のような、どういうわけか手を取りたくなってしまうなにかがある。悲しみのきわというものには。

人は悲しみを殺した。
涙を
音楽を殺した。
だから、自分自身を殺した。

永遠に殺した。

("The power of Myth"を参考に自作)


人の住処は、悲しみという海の中なのかもしれない。悲しみの海に住む魚は、空の鳥に憧れすぎてしまった。海を離れたら生きてはいけないのに、調子に乗って飛び跳ねて、陸地に乗り上げ干からびる寸前。

僕は、一人でいるのが寂しかったから文章を書いた。友達の真似をして。

深海の祈りは、きっと神に届く。悲しみの中で神話と音を、そして宴とを神に捧げようではないか。

文章を書く。ながしゅーちゃんの真似をして。

あなたは悲しみの海の中で、どんな祈りを捧げるだろうか。僕たちは見よう。そのきわから立ちのぼる神話を。

祈りは物語となり、神に届く。きっと仲間をつくる。

人は悲しみの海で神に祈る。
そんな魚。

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お読みいただきまして誠にありがとうございましたm(_ _)m
めっちゃ嬉しいです❣️

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お読みいただきまして、心より感謝いたしますm(_ _)m

サポートありがとうございます!とっても嬉しいです(^▽^)/