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自己責任論との付き合い方

辞書の定義では自分の行動の責任は自分にあることや、自身の行動による過失の場合にのみ自身が責任を負うこととなっている
Wikipedia 自己責任

自己責任論が世の中に過剰に溢れすぎているように思う。特にSNSではそういった旨の発言がいくらでも見つけられる。
これは、SNSが個人の考えを主張しやすいプラットフォームであるためという側面もあるが、それ以上に自己責任論が人々に過度に浸透しているためなのかもしれない。

「自分の行動の責任は自分にある」この主張はいたって真っ当なものであるように感じるし、事実この考え方は自分の人生に対して利用する分には人生をより良く生きるのに役立つことが多いだろう。
一方で、自己責任論を他人に対して振りかざすことが良いことなのかを考えてみたい。

自己責任論を自分に使う

何か失敗してしまったときや、選択を誤ったと感じた時、自分に責任があるとする思考方法は、自身に反省を促すことに繋がる。(もちろん上手くいった時にも機能する)

「どうして失敗してしまったのか?」
「どういった自分の行動が失敗に繋がってしまったのか?」
「次に失敗しないために自分にできることは何か?」

などのように自分にできることを省みることができる。それがたとえ自分ひとりの原因による結果で無かったとしても、自分にできることを省みて次に繋げられる。
個人での自己責任論は、プロセスと結果の両方に着目する傾向にある。その瞬間にいたる過程と結果を自分ごとにして、自分にできることを考える。
人生というものは必ずしも自分でどうにかできるものではないし、自分ではどうしようもないことも多いが、自分ごとで考えることでそういった不可避の困難を乗り越える原動力を得られる。

自己責任論を他人に使う

一方で、自己責任論を他人に対して使うとどうなるか。
「今あなたがそういう状況に至っているのは、あなたの責任です。」これで終わってしまうのである。

あなたに責任がある。だから私はこれ以上関わりません。そういうスタンスに必然的になりやすく、言葉を投げた側が積極的にその人の人生にかかわろうとすることは滅多にない。

これが悪いことかと言われると必ずしも悪いとは言えない。他人は他人、自分は自分という考えは至って当然の主張であるからだ。

しかし、それにしても至る所で使われてはいないか?鬱憤ばらしのおまえが悪い、という言葉が世に溢れているのでは?

人は生まれてくることを自身で選択できない、人は生まれてくる親を選択できない、環境を選択できない、どのような能力を持って生まれるかを選択できない。

気がつけば自分で選択することを強いられ、選択の結果ある今現在の全てが自分の責任であるかのように語られる。

相手がどんな人生を送ってきたのかも考えず、ただ最終的な結果を指差して、「自己責任だ」とだけ言う行動に何か生産的なものが残り滓でもあるだろうか?

自己責任論との付き合い方

自己責任論って自分に使うと、強い関心を持つことに繋がるが、
他人に使うと無関心に繋がる。すごく不思議だ。

自己責任論を使って、相手に関わっても何も生産性のない時間がすぎるだけだ。

その時間が必要なときはあるのかもしれない。しかし、大半のものについては、そもそもそんな言葉を投げかけるくらいなら、関わることを避けるだけで済むケースがほとんどのように思える。

自己責任論との正しい付き合い方は、自分に対して使い、積極的に関わりたい他人に対して自己責任を無理強いせず、辛抱強く自己責任論を自分に使うことの良さを共有することぐらいだ。

自己責任論は強力で、それゆえに、人を自然と追い詰めるパワーも強力だ。
「それはあなたの責任だ」心の何処かで、そう思う自分を認識しながら、「何のための自己責任論なのか」考えて生きていくべきではないか。

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