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多分、信じてる

ここ最近の私は人に対する好き嫌いが全くと言って良いほどない。
『苦手』と感じる人も『良い人だな』と感じる人もいるけれど、『好き』『嫌い』ではない。
以前は物凄くあった。こうなったのは二、三年前くらいからだと思う。

例えば職場で同僚や上司の話題になった時、
「○○さんって嫌よね」
と話を振られることがある。結構な頻度である。
だが○○さんに対して私が持つ感情は、話を振ってくれた人とは違うと感じることが多い。確かに嫌だけどそんなに目くじらを立てるほど嫌でもなかったり、下手すると『良い人だ』と感じていて『へえ、そんな風に嫌がる人も居るんだ』と驚くことすらある。
別に良い人ぶってるとも思わない。普通にそう感じているのだ。

人がどう感じるかは十人いれば十人とも違うと思うけれど、それにしても私の感覚の周囲とのズレは大きいように感じる。
特定のある人に対し、
「○○さんはすぐに人の上げ足を取るじゃない?嫌だよねえ」
と言われたことがあるのだが、
「それって○○さんの癖ですよね?私、『○○さん、また上げ足取るから~』って笑いながら言ったことあります」
と言ったら、
「ええっ!よく何も言われなかったねえ!!」
と驚かれてしまい、驚かれたことに驚いてしまった。
どうも世間的に随分ズレているらしい。

この相手の頭の中には、無意識のままに
『○○さんは人の上げ足をすぐに取る→話し相手をバカにしている、尊大な人だ→私をバカにするなんて失礼で、許せない→だから私は○○さんが嫌い』
という図式が成り立っていると思うのだが、私の中の図式は
『○○さんはすぐに人の上げ足を取る→これはこの人の癖で、意図してやっているのではない→この人、こういう癖があるんだ、へえ~→でもよくお菓子を買って来ては、気前よく配ってくれたりするんだよなあ。罪滅ぼしのつもりなのかな。ホントは『ああ、また上げ足取ってしまった』って後悔しているのかも→人って面白いな』
というものになってしまう。

この二つの図式の違いはなんだろう?と考えてみると、相手の図式では思考のベクトルが常に『自分に対する○○さんの態度』に対して向いているのに対し、私の図式では純粋に『○○さんという人間』のみに向いていることだと思う。
相手の図式だと、『いかに自分が不快な思いをさせられたか』について、ドンドン深みにはまるような考察がなされていく。そうだ、過去にはこんなこともあったぞ、こんなことも言われた、ということになり、○○さんに対する嫌な記憶が積み重ねられていく。
しょっちゅうお菓子をもらっても、それは『なによ、自分は気前がいいって言いたいの?』と鼻白むだけの行為になってしまう。
一方私の図式だと、○○さんをまるで動物園のゴリラ(いや別にパンダでも良いんだけど、彼女はどっちかと言うとゴリラに近いのでつい例えてしまった)でも見ているような気分で観察している。自分とは別の世界の、一枚の厚い壁を隔てた向こう側にいる人、として見ているのだ。
自分の境界の内側に○○さんを入れていない。だから○○さんが何をしても腹も立たないし、ふーん、と思って見ているだけになる。
有難い行為をしてもらえれば、純粋に感謝するだけだ。

この考え方だと気持ちは随分楽だし、世の中殆ど良い人ばかりになるのだけれど、残念ながら私と同じような人に会ったことがあんまりない。
件の○○さんについても、職場では酷い言われようだ。○○さん自身も薄々それに気付いているようだが、相変わらず上げ足は取るし、お菓子は振舞ってくれる。
だけど私はそんな○○さんを眺めているだけだ。○○さんはそういう人なのだ、ふうん、と思うだけだ。冷たい言い方をすれば『私とは関係ないところにいる人』である。
でも殆どの人はなぜだか○○さんを自分の境界の内側に入れたがる。嫌なら入れなきゃ良いのに。妙なものだ。

勿論、自分の身に実害が及ぶようなことがあれば話は別だ。速攻で逃げる。防御する。だけど多分、『嫌い』にはならない。『ああ、残念だなあ、でも自分の安全の為にもっと距離を取ろう』と思いながら実践するのみ、である。
私はきっと、人間が嫌いになれないのだ。
根本的に、『嫌な人』は存在しないと思っている。そして程度の差こそあれ、多分人間って『今の自分より良くあろう』と無意識に思っているものだと信じている。
そしてそんな自分を信じている。

因みに○○さんは私には優しい。上げ足は取るけど、そんなのどうでも良いと私は感じる。無理なんてしていない。自然にそう思う。
積極的な働きかけなんてごめんだけど、そういう○○さんを知っている人がもっと増えれば良いな、とは思っている。