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取り敢えず『はっけよい』

子供の頃、近所に相撲の大好きなおじさんがいた。日曜日などに私達子供が公園で遊んでいると、
「相撲せんか。土俵作ったぞ」
と声をかけてくる。見に行くと地面にライン引きで丸い円が描かれ、中に線が二本引いてある。土こそ盛り上がっていないけれど、一応土俵の体をなしていた。
おじさんは自分では相撲を取らない。遊んでいる子供同士を取らせるのである。何人かが
「やるわ」
と言い出すと、おじさんは行司をかってでる。大きな声で
「見合って見合って~はっけよおーい、のこった!」
と言って子供達が組み合うのをみて喜んでいた。
誰かが取り組みをやりだすと、自然と他の子供達が集まってくる。
「○○ちゃん、頑張れ」
「いけ、いけ!」
とそれぞれに声援が飛ぶ。するとおじさんは行司をしながら、ますます嬉しそうな顔になった。

ちゃんとしこ名もつけてくれた。
大抵は名前に『山』や『海』をつけて、『○○山』『△の海』などと言う風に呼ばれた。みんなそれを面白がって、「わあ『ふみの山』やって」とか「オレ『かずの海』って変やあ」とか言いながら、わあわあ笑っていたものだった。ちゃんと呼び出しもやってくれたから、その時はとても盛り上がった。
土俵に上がる前と取り組みが終わった後は、お互いに礼をさせられた。相手がズルをした、と抗議しようが、打ったところが痛くて泣こうが、おじさんは
「ハイハイ、取り敢えず先に、礼っ!」
と必ず挨拶させてからでないと土俵から出してくれなかった。
出た後はちゃんと言い分は聞いてくれたし、擦りむけば公園の水でじゃあじゃあ傷を洗ってくれた。だから礼をするのはみんないつのまにか習慣になってしまって、『何かアクションを起こすのは取り敢えず礼をしてから』と固く思い込んでいた。

服は着たままだが、相撲を取る時は必ず裸足になるよう、おじさんに言われた。靴だと滑って危ないから、ということだった。だからいつも土俵の周りには、靴下を突っ込まれたみんなの靴が沢山並んでいた。
おじさんはこの為に、いつも竹箒を持参して土俵にする地面を綺麗に掃き清め、丁寧に石を拾っていた。子供達がけがをしないようにしてくれていたのだ、と気付いたのは随分経ってからである。
「相撲してきたー」
と玄関で言うと母に、
「入るのは庭の蛇口で足洗ってからにして!」
とよく言われたものだった。

相撲をやっている近くで誰か子供同士が喧嘩をしていようものなら、おじさんは放っておかない。つかつかと近寄っていって引き離すと、
「おいおい僕ら、ケンカしてんのか。取り敢えず相撲せんか。相撲で決着つけたらどうや」
と半ば強引とも思える調子で誘う。子供達はおじさんの勢いに押されて、渋々喧嘩をやめ、土俵に上がる。ちゃんと礼もさせられる。
相撲が始まると、二人共夢中になってしまう。まわりのみんなも応援する。いつしか喧嘩をしていたことなど、本人たちも周りの子供達も忘れて、場が一つになった。
勝負がつくころには何故かみんなが盛り上がって、笑顔になっていた。

おじさんは私が大きくなって相撲なんて取らなくなっても、近所の子供達に声をかけてははっけよい、とやっていた。時折懐かしく見ていた。
私が大学生になった頃、突然おじさんの訃報が回覧板で回ってきた。まだ五十代だった。とても驚いた。
心筋梗塞だったそうだ。
同じ団地ではあるが、ちょっと離れた家の人だったのであまり普段から付き合いはなかったが、母は
「あんたら、よう遊んでもろうたし」
と通夜に参列してきた。

通夜で聞いてきた母の話によると、おじさんは沢山の力士を輩出している有名な大学の相撲部出身だった。そう言われれば、小柄だったが体格の良い人であった。
どういう理由で力士の夢をあきらめたのかまでは知らない。だが、相撲を取っている子供達を見ているおじさんは、心の底から楽しそうだった。子供の頃はただ『このおっちゃん、相撲取らせんの好きやなあ』としか思っていなかったが、大人になってみるとおじさんの相撲愛の深さをしみじみと感じる。
あまり相撲に興味のない子供達に、少しでも魅力を知ってもらいたかったのかな、とも思う。

薄情なことに、もう私はおじさんのお名前すら思い出せない。でも公園にやってきて一人竹箒で地面を掃き、しゃがんで丁寧に石を一つ一つ拾って、自前のラインマーカーでニコニコしながら地面に丸を描いていたおじさんの姿は今でも昨日のことのように思い出せる。
公園の土俵で友達みんなと相撲を取り、おじさんと一緒に声援を送ったことは、子供時代の大切な思い出として、私の胸に今も残っている。
生憎、相撲には全然興味のない人間になってしまったけれど、おじさんはそれで満足して下さるだろうか。