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人生の帳尻合わせ

少し前になるが、ニュースでゲーム依存についての特集を組んでいた。
観るともなしに観ていたら、ゲーム依存の子供を更生施設に預けた、という親が出て、こんなようなことを言っているのが耳に入った。
「ゲーム依存は病気なんです。心を鬼にして、あの子が治るまで施設に入っていてもらいます」
聞いた瞬間、思わず口に出して
「それ、ちゃうやろ」
とツッコんでしまった。
同時に私の瞼の裏に、寂しく辛そうなお子さんのしょんぼりした孤独な背中が浮かんだ。胸が塞いだ。

私は心の専門家ではないから、依存症の詳しいメカニズムは分からない。どれくらい患者がいるのか、どれだけ苦しんでいるのか、も詳細は知らない。
でもこの病?が酷くなるギリギリ一歩手前で立ち止まった経験がある、或いは軽く自分はそうなんじゃないか、と自覚している人は案外市井にゴロゴロ居るのではないかと思う。
かくいう自分もそうだったからだ。
私の場合はアルコールである。

今考えてみても、飲みたくて飲んでいたという記憶は全くない。
美味しかったとか、楽しかったという前向きな気持ちを味わったこともない。ましてそれを誰かと笑顔でシェアした、ということもない。
ただ、酒に手が伸びる。機械のように飲む。酔ったという感覚は後から追いついてくる。
このまま飲み続けるとどんな人生が待っているかとか、家族が心配するとか、そんなものは遥か彼方に追いやられてしまう。どうでもいいことになってしまう。
要するに『人生を投げた』状態である。

何故『人生を投げ』てしまうのか。
『自分』という人間を大切に思う気持ちがないからである。
何故『自分』を大切に思う気持ちがないのか。
育んでこなかったからである。
もっと言えば『自分は生きていて良い、素晴らしい存在である』と、幼少期からずっと思えていない、或いはその思いが非常に薄いからである。
そう思えていない原因は何か。
そう思わせてくれる存在が身近にいなかったからである。
本人の所為では絶対にない。

ちょっと前、一平さんの『ギャンブル依存』について世間が賑やかだった時期があった。
彼のやったことは翔平さんは勿論、家族や周囲に対する大きな裏切りで、絶対に許されることはない。それは厳然とした事実である。私もかなり大きなショックを受けた。
しかし、一方的に彼を責め立てる報道を観ていて、何かしっくりこない感覚を覚えた。
詳しくは知らないが、一平さんもきっと、そういう育ち方をしたのではないか。

じゃあ依存症は親の責任か、といえば半分イエスじゃないかと思う。
残りの半分は親の祖先の責任、だろう。
そしてその祖先がどうしてキチンと子供に向き合えなかったのか、という理由は、例えば戦争だったり、どうしようもない貧しさだったりするのではないだろうか。
『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンの生涯が感動を以て語られるのは、地獄のような状況下にいた彼が、ミリエル神父からの深い愛を得ることで自らの人生を力強く立て直したからである。
もしミリエル神父に会わなかったら、彼は誰にも知られないまま、哀れな生涯を閉じていたに違いない。
お話の世界ではあるけれど、分かりやすい例だと思う。

ゲーム依存は確かに病気だろう。
しかし、親が『心を鬼にする』のは違う気がする。
そうじゃなくてこの子に必要なのは
『あなたのことを全部受け容れるよ。いつでも待っているよ。あなたはそのままで良いんだよ』
という、子供が心から安心できる言葉なんじゃないか。
勿論これを本心からいう為には、先ずは親自身が自分をそういう言葉で満たさねばならない。
これは簡単な作業ではない。だけどいつか、子孫の誰かが必ずやらねばならない作業でもある。
自分の代でやってしまうんだ、という強い覚悟と、諦めない伴走者が必要である。
私の実感である。

更生のベクトルは子供に向けるべきではない。
親は自分の人生の帳尻合わせを子供にやらせてはいけない。自分が責任を持ってやるべきだ。
そして誰かの助けを借りてもいいから、『無条件の愛』に飢えている子供を『自分の手』で救うことこそ、親のなすべきことだと思う。













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