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三方よし?の網

私の実家は三百世帯くらいの家が集まった団地の中にある。今はその頃に建てられた家々のご多分に漏れず、老人ばかりになってしまっているが、私が子供だった頃は沢山の子供がいて、通っていた小学校では一大勢力となっていたくらいだった。
公園もあり、夏にはそこで夏祭りが行われた。自治会の意向だったのか、夜店などは業者は来ず、自治会員が交替で小さな店を出していた。勿論費用は自治会が負担していたが、準備等は係に当たっている家が交替でやることに決まっていた。
といっても小さな公園に出せる店の数は知れていて、かき氷と水風船釣り、綿あめと金魚すくいとフランクフルト、くらいだった。それでもいつもと違う公園の雰囲気や、近所の見知ったおじさんおばさんが手渡してくれるかき氷などは子供心に新鮮で面白く、楽しかった記憶がある。

勿論我が家も自治会員だったから、この係は回ってきた。
ある年、ウチは金魚すくいの担当になった。
これはかき氷に次いで大変な係なのだ、という風に言われていた。細々としたものの準備が必要だからだ。最近は『金魚すくいセット』などという便利な通販もあるようだが、四十年以上前にそんなものがある訳もない。持ち帰り用のビニール袋は買ったようだが、すくった金魚を入れるボールは、確か母がカップ麺の入れ物を綺麗に洗ってためていた物を使ったように思う。
なんと網は手作りしなければならなかったから、毎年当たった家の人は家族総出で金魚すくいの網作成に精を出すことになっていた。

金魚すくい担当が嫌がられていた理由はもう一つあった。残った金魚の『処分』に困るからだった。
食べ物と違って「持って帰って」といっても敬遠する人も多い。だから夜店の翌日には、近所の用水路にカラフルな魚影をよく見かけた。困った人が残った金魚を用水路に放したのだろう。今だったらちょっとしたニュースになりそうな話だが、当時はウチの近所では普通に行われていた。

ウチが金魚すくいの担当になった、と聞いた時は嬉しかった。でも網をチマチマ作るのはあまりやりたくなかった。
ところが、
「オレに任せとけ。めちゃくちゃいい案があるぞ」
と父が胸を叩いて言ったのである。父は手先の器用な人で、武骨なゴツゴツした手をしているのに、細かい作業を丁寧にきちんとする人だ。金魚すくいの網なんて、ワイヤー(当時はプラスチック製などなかった)を曲げてねじって、紙を貼って、という面倒くさい作業を延々と繰り返す訳だが、これに妙案ってどういう事だろうと思っていた。
すると父は家にあった障子紙を持ってきて、ゆっくりと綺麗に小さくカットした。そして一つずつ丁寧にピンと貼って、網を作った。母や私達にも『コツ』を伝授して作らせた。
かくして『大変丈夫な金魚すくいの網』が大量に出来上がった。

夜店の当日、金魚すくいは大盛況になった。小さな子供も絶対にすくえるので、喜んでやる。網が全然破れないので、みんな面白がって我も我もとやってきた。取り敢えず沢山すくえても持ち帰りできるのは何匹まで、と制限して開始したら、夜店が終わる頃には一匹残らず居なくなってしまった。『完売』したのである。
「ほらみろ、ええ案やって言うたやろ。お父さん、賢いやろ」
と父は得意そうにニヤリと笑った。
「一匹も残らんでホッとしたわ」
と母は胸をなでおろしていた。
これが商売だったら父もやっていなかったと思う。「どうしたら金魚が無事に一匹も残らないか、みんなに公平に楽しんでもらえるか」を考えた結果の『丈夫な網』だったのだ。

父は今でも、こう言う名案?を考え付くのが大変得意な人である。
「みんなすくえた方がおもろいやろが。おもろかったら、他の人も来るやろう。いっぱい来たら金魚は早う捌ける。オレらも楽やし、金魚も変なとこに放されるより、誰かにちゃんと貰われた方がええ。ええことづくしやろ?」
面白そうに説明する父には、いつもの厳格さはなく、いたずらっ子のようだった。私にとって厳しく威圧的な普段の父よりも、そういう父の方が格好いいと思い自慢ですらあったのは、柔らかい発想のできる父に対する憧れと、みんなに喜んでもらおうという、父のサービス精神が素直に嬉しかったからだと思う。
すくった金魚を喜んで持って帰る小さな子に、手を振りながら店番をする父を、私はいつもとは違った誇らしさをもって見ていた。

珍しい父の姿と共に、深く心に残っている夏の思い出である。





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