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センスというもの

学生時代バイトしていた婦人服店では、時折マネキンに服を着せるという仕事があった。自分で良いと思う服を選んで適当に組み合わせて着せるだけなのだが、私はこの作業が超絶苦手で、言い渡されるととても憂鬱だった。
一緒にバイトしていた仲間たちは私とは正反対で、ああでもないこうでもない、と売り場をウロウロして組み合わせを考えることにワクワクしていた。また、彼女たちの考えた組み合わせは私などには到底考え付かない、パッと目を引き『素敵だなあ』と思えるようなものであることが多かった。そういうことが全く出来ない私は、いつも羨ましい思いで眺めていたものだった。

私にはセンスというものがおよそない。
センスといっても色々あるだろうが、私に特に欠けているのは美的センスである。
この色にはこの色が合うだとか、この服装にはどんな小物が良いだとかいうことが皆目わからない。
私が選んだ組み合わせは、往々にして周囲を戸惑わせるくらい、チグハグである。首を捻られる。でも自分にはそのチグハグ具合が理解できない。
個性的というのではなく『意味不明』だ、等と夫には笑われてしまう。

若い頃、何かのイベントで生花を何本か貰って帰った。せっかくだし活けようと花瓶に差したら、母がそれを見て、
「そんなご無体な」
と言って笑い出した。しかし私にはなぜ笑われるのかがよく分からなかった。
要するにバランスの悪い活け方をしてしまったのだな、という事実は理解できたが、どこがどんな風にマズいのか、の理由が知りたいのに、教えて貰えなかった。
習いに行ったこともあるにはあったが、結局未だに活け花は苦手である。

風景等の写真を撮って夫に見せると、
「どういう構図やねん」
と呆れられる。同じ景色を夫が撮ると、確かに説得力があるというか、何を言いたいかがよくわかる写真になる。
夫曰くは、
「撮りたい対象にキチンとフォーカス出来ていないからそうなる」
らしいのだが、私にはそのフォーカスする手立てが全くわからない。技術が覚束ないこともあるが、脳味噌の中のそういう感覚を司る分野がごっそりと抜け落ちているのではないか、と真剣に思っている。

モーツァルトのクラリネットコンチェルトの途中に、長めのカデンツァ(ソロ奏者が自由にフレーズを作って独奏する部分)がある。以前レッスンでこの曲をやった際に、自分で考えたカデンツァを『聴きよう聴き真似』でなんとなく吹いたら、師匠のK先生はビックリして目を丸くして、
「どうやったらそんなカデンツァになるんですか?言いたいことが全く分かりませんね。挑戦するのは結構ですが、基本を踏まえてから挑戦して下さい。今のだとただの滅茶苦茶です」
とボロクソに言われて見事に玉砕した。
恥ずかしい思い出である。

母は小原流の師範の資格を持っていたから、活け花には多少の心覚えがあった。その母からセンスレスだと言われるのはしょうがないとも言える。
が、ウチの夫は何故か上手に花を活ける。誰が見ても『お、エエなあ』と思えるように活ける。全く活け花の手解きを受けたことはないのに、悔しい。
ファッション雑誌なども昔はよく見ていたし、良いものは良いと思える感性はあると思う。だがさあ、組み合わせてみてごらん、と言われると出来ない。尻込みしてしまう。
こんな具合だから写真も夫に任せがちだし、一人の時もたいして撮らない。私にとってインスタグラムをやっている人などは、眩しい存在である。
カデンツァを上手く演奏するには
「浴びるほど聴きなさい」
というのがK先生の教えだ。結構いろいろ聴いたようにおもうが、やはり聴き足りないのだろう。なかなか上手くフレーズを作れないままである。

センスを身に着けるにはどうしたら良いのだろうか。
これまでの私の数多の失敗談から考えるに、『言いたいことがちゃんと言える事』が大切なのではないか、と思う。
『言いたいこと』が腹の底からわかっている、そんなこといちいち考えなくても勝手に自己の表現として出てくるくらいの状態でないと、身につかないのではないか。
『言いたいことがはっきりしている』ということは、服装だろうが写真だろうが活け花だろうが、『自分にとってこれは心地いいものだ』ということが明確だということだ。

私はきっと『自分が心地いいと思う事』がまだまだ自分で腹落ちしていないのだろう。きっとずっと幼い時から自分を抑圧してきたからなのだろう。だから様々なシーンで自分の主張がピンボケしているのだ。
自信を持って『私はこれが心地いい』と言えるようになれば、表現のセンスは身につく、というより勝手に滲み出てくるのだと思う。
焦らず少しずつ、楽しみながら自分を解き放って行きたい。