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他人事

以前、いつも返品にやって来るお客様のことを記事にしたことがある。その後も相変わらずで、つい一昨日もやってきた。しかも同じ日のうちに二度である。
このお客様は商品を傷つけないので黙って応じているが、流石に同じ日に二度は多い。また近いうちにやってくるだろう、と思いレジの先輩のMさんに「連絡ノート」で相談した。レジ係はシフトがなかなか重ならないので、お互いに連絡したいことがある時にはこのノートに記入する。レジの脇に置いてあり、出勤時には必ず見ることになっている。
『例の返品の多いW様、今日同じ商品を二度返品に来られました。綺麗な状態ですし、一応理由は仰るので応じましたが、今後もこういう応対を続けてよろしいでしょうか?混んでいる時間にはお越しにならないので業務の妨げにはなりませんが、あまり回数が多いのもどうかと思い、何か言うべきかと思案しています。Mさんはどうお考えですか?』

これに対するMさんの答えが面白かった。
『一日に二度ですか!私は経験ないですが、在間さんが好きなのかな。一応ちゃんと綺麗な状態で戻して下さっているので建前上は応じなければなりません。でも今度からは『返品・交換は一度まで』とでも言ってみましょうか。それなら過度にW様だけを制限することにはなりませんものね。それにしてもW様、フットワーク軽いですね』
なるほど、今度からはその作戦で行こう、と思い、
『ありがとうございます。今度はそうしてみますね』
と書いておいた。

レジに入っていてよく感じることだが、「人とのコミュニケーション」を求めている人が多い。
「これ、返品したいんです」
と言われれば、
「畏まりました。恐れ入りますがどういった理由でしょうか?」
とこちらは必ず尋ねる。
「同じようなものが家にあるのを忘れてつい買っちゃったので」
とでも言えば、
「さようでございますか」
と答え、商品をチェックして再販出来そうだと判断出来れば、返金に応じる。お金を返せば受け取りのサインを頂き、お見送りする。
ただそれだけのやり取りだが、それにすら飢えている人が沢山いると感じる。W様は極端なだけだ。近い感じを受ける人はそこら中に居る。

先日、靴をお求めの初老のご婦人に接客した。サイズをお探しし、試着の際に横でご要望を色々伺い、最終的にレジに来て頂いてお会計となった時、そのご婦人は、
「なんだか久しぶりに人と話したわ。夫に先立たれて、一人住まいなんです。娘は遠くにいますしね。なんだか娘と話したみたいだったわ。ありがとう」
と嬉しそうに仰った。いつまでも名残惜しそうにお辞儀して下さる姿をお見送りしていると、ちょっと切なかった。
交わしたのは靴をお求めになるのに必要な会話のみである。世間話の一つもしていない。仰ったことが本当だとしたら、そういった会話すらもこの方はずっとされていないのだろうか。寂しいご心中を思って、ちょっとしんみりしてしまった。
世の中から詐欺の電話がなくならない一因は、こういうところにもある気がした。

私もまだ子供が乳児だった頃は、夫以外で会話をするのはスーパーのレジ係の人だけだったこともあった。授乳の大変さと身体のしんどさで、積極的に人との交わりを求める元気はなかった。冬は深い雪に閉ざされることもままあり、スーパーにすら行けないこともあった。夫が帰宅するまで、殆ど誰とも口をきかない毎日は正直とても辛かった。
知り合いのいない見知らぬ土地での、たった一人での初めての子育て。あの頃の孤独で心細い気持ちは、この老婦人に通ずるところがあるかも、と思う。だから他人事だと思えない。

他人に関心を持つということ。
それは過ぎれば他人の領域に踏み込む、失礼で迷惑な行為である。
何も意図しないほんの少しの笑顔と思いやりが、すぐ近くに居る人にちゃんと届いてくれれば良いなあと思う。そしてそれが当たり前にみんなが出来るようになれば、世の中はきっとぐんぐん良い方に向いていく、そんな気がずっとしている。