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圧巻

私のクラリネットの師匠であるK先生は、現在大学の先生をなさっている。大学での仕事に就かれたのは、私が先生に師事しだして10年目くらいだったと思う。

教員採用試験直前のある日のレッスン時、先生が私に
「今からちょっと、お客さんになってくれませんか?」
と仰った。
聞けば試験は面接と実技だそうで、その実技試験の『予行演習』として、私を面接官に見立てて実際に演奏してみたい、と仰る。私にすれば、先生の渾身の演奏を無料で聴ける、またとない機会である。大喜びで了承し、先生と向かい合う形で座った。

先生が私の前に立ち、一礼される。私は拍手の後、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。いよいよだ。

先生が楽器を構えた瞬間、いつものレッスン室の中に異様な緊張が走り、先生の周りに透明のバリアが張り巡らされたように感じた。息をする事すら憚られるような、張り詰めた空気が漂う。先生から出たオーラのような物が、レッスン室を一瞬でステージに変えた。私はいつもの生徒ではなく、観客にさせられてしまった。目の前の先生が、物凄く遠い所にいらっしゃるような気がした。先生の集中力の生み出す『圧』に私は圧倒された。初めての経験だった。

演奏が始まると、更に圧倒された。聴いた事のない、難しい現代曲だった。次々に繰り出される超絶技巧。大地を踏みしめるような力強いff。芯のある、儚く美しいpp。難解ながら、滑らかに流れるメロディー。レッスン室は先生の作った世界になっていた。私がこの部屋に居ることは、まるで世界中から忘れ去られたように感じた。

演奏が終わると深々とお辞儀をされ、顔を上げるといつもの先生がそこにいらした。不適当な言葉だが、おかえりなさい、という感じがした。簡単にブラボーなんて言える気がしなかった。凄かったです、といいながら、私は精一杯力のこもった拍手をした。魔法にかけられていた数分間だったように思えた。

先生は無事に試験に合格され、その大学の教員となられた。

日本には数多の素晴らしい演奏者がいらっしゃるが、演奏する事だけで食べて行く事が出来るのはほんの一握りである。教える仕事は比較的収入が安定している。
「子供も産まれますしねえ」
先生は合格の報告をして下さった後、そう仰りながら苦笑いして頭を掻いた。丁度奥様が3人目のお子さんを妊娠中だった。
「二重のおめでとうございます、ですね」
私はそう言って、先生と一緒に笑った。

プロの凄さを身を持って感じた、稀有な経験の思い出である。


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