本当はどうしたいの?
本当はどうしたいの?
この問いを自分に投げかけることを忘れると、やがて心がしんどくなる。忙しい時は時間を取るのが難しいけれど、「だるまさんがころんだ」の鬼が振り返った瞬間のように、事ある毎に自分に問うている。ちょっと気を付けるようにするだけで良い。
これが出来ないと、感情と事実の分離が上手くいかない。感情と事実の分離が上手くいかないと、感情が自分を支配してしまう。結果色々と残念なことになる。
友人からアンサンブルグループに誘われている。
少人数で、本番も気の張らない軽いものが多い。練習回数も少ない。
友人はこちらに来てから一番仲良くしている人。年齢も同じ。一番気楽に話せる人でもある。
アンサンブルは好き。気の張らないイベントも好きだ。
では何が私をモヤモヤさせているのか。
少人数アンサンブルは気軽で良い。良いけれど、その編成では聴く方が満足できるように演奏するのは素人には難しい、と私は経験上感じている。アンサンブルは大人数になればなるほど合わせるのが難しいけれど、聴き映えはするし、音に厚みが出て吹いていて私は楽しい。低音クラリネットの重厚な響きはやっぱり常に欲しいと思ってしまう。
練習回数が少ないのは主婦としては助かる。だが、生煮えの状態で本番に臨むのは私の一番嫌いなことである。私は団長やS君のように初見でもさらっと情感込めて吹ける人でもない。ちゃんと練習して成果をお披露目するのが私の性に合っている。
例えお代を頂かないコンサートであったとしても、素人が演奏するにしても、火にかけて即お披露目、は私はしたくない。
そして何より、私は「本番より練習が好きな人」なのだ。本番はなくなってもあまり残念に思わないが、練習が中止になると凄く残念に思う。そういう人間である。
聞くところによると、今まで一緒に活動していた仲間が一人抜けるので、グループの活動が続けられなくなったそうだ。それで練習会場の近くに住んでいて、気の置けない仲である私に白羽の矢を立てたのだという。
誘ってくれたのは凄く嬉しい。だけど、上記の理由で私はあまり前向きになれないでいる。
毎年依頼をくれていた施設に申し訳ないので活動を続けたいのだ、と彼女は言う。彼女が困っているなら私も助けたい。だけどなあ。
本当はどうしたいの?
改めて自分に問うてみる。
私は練習が好き。本番はそうでもない。
生煮えの仕上がりで本番に出るのは嫌だ。
もう少し大勢のアンサンブルならしたい。
彼女の助けにはなりたいとは思っている。
正直にこのことを言ってみるしかなさそうだ。
彼女も困らず、私もモヤモヤしない解決策がきっと見つかるだろうと思っている。
モヤモヤをそのままにしておくと、本当にロクなことがない。
モヤモヤそのものは悪いものではない。自分の本音が隠れている。
自分を落ち着かせるためには先ずモヤモヤを「あっ、出てきよった!」と見つけて捕まえて、自分の目の前に座らせることが必要である。
次にこいつの正体はなんなのか、ゆっくり見極める。
彼女に良い顔したい、という自分を「馬鹿じゃないか」とコケにする気持ちがある。
生煮えの演奏なんてしない方が良い、と力む自分を「カッコつけて」と鼻白む気持ちがある。
「本当はアンタ、目立ちたいんじゃねーの?」と自分を揶揄する気持ちがある。
要するに自分の心の内側から、自分に対する強烈な皮肉と批判がが聞こえてくるのだ。これがモヤモヤの正体である。
なぜこんなモヤモヤが出てくるかと言うと、自分を労り足りないからである。自分で自分を夢中になって虐めている。マゾヒストである。
自分を虐めることで、他から虐められないと安心しているのだ。
こんな時は自分をたっぷり可愛がることが必要である。自分の一番の理解者で一番の味方は本来自分なのだから。
彼女に良い顔したい。当然じゃないのか。
生煮えの演奏が嫌。当たり前やん。
別に目立ちたくねーよ。そんなのどうでもいいよ、楽器さえ吹けたら。
皮肉屋の自分にはこのように言い返す。
自分の気持ちを正直に言うことは、彼女をがっかりさせるかもしれないけど、私は気持ちよく過ごせそうだ。
次に会うときに、返事をしようと思っている。