敵とヒーロー

私の周囲に居る方々には、どういう訳か敵と味方を作りたがる方が大勢いらっしゃる。
○○さんはこんなこと言ってたんだけどおかしいわよね、とか、✕✕さんはあんなことするけど、私はそんなことは出来ないの、△△さんもそうよねえって言ってくれたわ、あなたもそうでしょう?・・・。
こんな具合に、私を仲間に引き込もう、或いはどっちかの勢力に色分けしようとしてくる。時にはかなり強引に、私の考え方に同意しないなんて、あなたがおかしいのよ、なんて言わんばかりの圧を掛けてくる方もいらっしゃる。
ああ、そういう気分なのねえ、と眺めておくのみにしているのだが、正直なところちょっと疲れる。

例え、どちらかの見解が自分の意見と近い、と思っても、こういう時私は絶対にどちらの意見だとも言わない。
うやむやに誤魔化して、ふんふん、そうなのねえ、と聞いておくだけに留める。
圧の強い人だと、私が自分の思い通りに動かないことに苛立ち、ここでなじってきたりする。しかし、動じることはない。
私のテリトリーに踏み込むことは例え近しい人であっても許さないし、私と言う人間を断ずることは、何人であってもさせない。
ただ、私がその意思を強固に分かり易く押し出すことはしない。ムーディー勝山(古い)の如く、『右から来たものを左に受け流し』てすましている。

世の中を白と黒、正しいと正しくない、敵と味方に全てはっきりと分ける、ということ自体が土台無理であるし、全く意味のない話なので、こういうことに躍起になっている人を見ると、なんだか哀れを誘う。なんて無駄なことに労力を割いているんだろう、と気の毒になってしまう。
まるで昔の自分を見ているような気分に襲われる。
しかし軽く同情はしても、靡きはしない。残念だな、と思うくらいである。

同じように、私の周囲の多くの方々は、どういう訳かヒーローを作りたがる。
あの人はこんな凄いことしたのよ、凄いわねえと褒めそやし、私にも同じように賞賛することを要求してくる。
生憎、こちらは天邪鬼ときているので、本当に自分も凄いと思えば同意するが、思わなければ『ふーん、貴方はそう思うんですね』で終わりである。
すると相手は苛立った様子を見せる。そしてこうでしょ、ああでしょ、ね、凄いでしょ、と私が同意を示すまで、かの人がヒーローたる理由を並べたてて同意を迫る。
でも安易に同意はしない。というか、出来ない。
するとこういう時もやっぱり、相手は苛立つ。しまいには不承不承諦めてくれるが、事ある毎にこの件を持ち出しては、私に同意を求めてくる。
まるで勝負を挑まれているような気分になるが、応ずることは永遠にない。

自分の腹から出た言葉でない限り、自分の意思として表に出すのは違和感がある。
そういうことが平気な人も居るだろうが、普通は嫌だろう。私は嫌だ。
だから自分に嘘をつかず、相手がどんな圧をかけてこようと気にしない。疎外されれば嬉しくはないが、しょうがない。
潔く諦めるのみである。

どうして他人の内心をコントロールしようとするなんて、無駄な努力をするんだろう。
それより自分を変えた方が余程早いのに。気分も良いのに。
本意でない誰かを力任せに屈服させたところで、何か得るものがあるとは到底思えない。屈服する心は、必ず強い反抗とワンセットだ。そんなこと、子供でも分かる。自明の理じゃないか。
それより、静かな心で、何故自分は相手にこういうことを要求しようとしているのか、を考え、向き合った方が、余程自分の為になる。ベクトルを向ける方向は相手ではなく、自分だ。他人を力で屈服させるのではなく、自分を納得させることに注力した方が、より快適な人生を送れる。
無理強いした他人の意思は、はがれやすいテープのように、すぐにぺらっと取れてしまう。そんなもの、当てにする意味なんて全くない。

こういう圧に接すると、つい気分が沈みそうになる。
いけない、いけない。
しっかり自分を見つめるべし。
自分に言い聞かせる日々である。