見出し画像

落ち着け、私

ここ数日、来店客数がこれまでになく多い。来店者数に比例して無理難題を突き付けるお客様も増えるし、イレギュラーな対応を迫られる場面も多くなる。急いでおられるお客様も多いから、ついつい焦ってやらかしそうになる。そうならないように緊張しつつ必死で業務をこなしているので、疲れ方がいつもより酷い気がする。
今日もFさんと二人で、ひっきりなしにレジに来られるお客様の対応に追われた。普段は売り場で発注業務をしていることが多いFさんだが、メーカーがボツボツ正月休みに入るということもあり、今日はレジに詰めてくれている。心強い。
課長も混雑時には私達二人の後ろでスタンバイしていて、商品のお尋ねへの応対やラッピングなどを手伝ってくれた。レジ周りにこれだけ人がいると、初心者マーク取れたての人間としてはとても有難い。

少ない人数で売り場を回さねばならないことに、私以外の人は慣れきっている。レジを打ちながら靴の説明をしつつ手袋のラッピングを承る、という私から見れば離れ業だとしか思えないようなお客様さばきをするのも皆さん平気だ。どれか一つでも手一杯の私には到底真似できそうにない。
私が入社した時からの指導員で、靴・服飾雑貨のレジ係の長であるMさんもそういう一人だ。二か月前にパートから正社員になったばかりだが、大変頼りになる。私はすっかり甘えさせてもらっている。
仕事は丁寧で早い。忙しい時でも、外してはいけないポイントをがっちり抑えている。イレギュラーなことへの対応も判断も迅速で的確だ。課長も全幅の信頼を寄せているのがわかる。入社六年目になるそうだが、それぐらいでこんなにしっかりするものなのかな、といつも彼女の仕事ぶりに内心舌を巻いている。

このMさんが繁忙時にいつも小さく呟く言葉がある。
「落ち着け、私」
がそれである。
私から見ればいつもMさんはいつも落ち着いている。そんな言葉は彼女には不要ではないか、と思ってしまう。
それでも『私』に一声必ずかけるのはなぜなのだろう。口癖なのかな、とずっと不思議だった。

先日ちょっとお客様が途切れた間に、Mさんに聞いてみた。
「忙しい時いつも、『落ち着け、私』って仰ってますよね。どうしてですか?いつも凄く落ち着いているじゃないですか」
するとMさんは、
「うわー!聞かれてたー!恥ずかしいー!」
とひどく照れていたが、
「私だって混んで来たら焦ります。でもこれ言うと、本当に落ち着くんですよ。おまじないじゃないですけど…テンパりそうな時でも、焦ろうとする自分にブレーキがかかるっていうか…一瞬冷静になれるっていうか…恥ずかしくて上手く説明できないけど、自分じゃない自分が『オラッ、しっかりしろ』って背中をたたいてくれるような気がするんです。わかります?…ああ、変なこと言ってますよねー?!上手く説明できなくてごめんなさーい!」
とはにかみながら答えてくれた。
Mさんらしい回答だと微笑ましく思った。

テンパると自分を見失う。焦ると結局何をしなければならないのか、お客様は何を望んでいて自分はそれにどう答えなければならないのか、がわからなくなる。
周りの人は皆各々の事で忙しく、自分のことをかまってくれるとは限らない。
だから自分で自分に声をかける。大丈夫、一人じゃない、絶対なんとかなる、だから自分を見失うな。結論を急ぐな。そういう気持ちからの言葉なのだろう。
誰かが伝授してくれた落ち着くための術なのかと思っていたら、Mさんのオリジナルだそうだ。素晴らしい。

これから先の私も、凄く嬉しいことに出会って有頂天になる時もあるだろうし、逆に悩ましい選択を迫られて焦る時もあるだろう。
周囲の人はずっと自分を見ていてサポートしてくれるとは限らない。自分の操縦する船の舵は最終的には自分で切らねばならない。でも一人じゃない。絶対なんとかなる。自分を見失いさえしなければ大丈夫だ。慌てるな。きっと良い方に向かうに決まっている。
どんな時もそんな風に心のバランスを取れれば理想的だ。

Mさんのように、
「落ち着け、私」
と自分に声をかけられるようにしたいものだと思う。