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心から音楽を愛して

以前所属していた楽団には二人の指導者がいた。一人は先日亡くなられたA先生、もう一人はK先生という方である。
K先生はウチの姑と同い年だが、現在もお元気に楽団を指導して下さっている。ご専門はオーボエである。

東北のご出身で関東の音大を出た後、関西の大きなオーケストラに定年まで所属された。その後は指導者として、忙しい日々をもう何十年も送っておられる。

実は私のクラリネットの師匠が、このK先生の高校時代の教え子である。専門が違うから、定期試験の時に監督として来られたり、職員室でこってり絞られている(音楽高校では実技試験の結果が悪かったりすると、職員室で演奏指導されたりと言ったことがあるそう)若き日の師匠を横目で見ていたり、といった具合に、すれ違うと挨拶する程度の知り合いだったようだが、私がK先生の指導を受けている、といったら師匠は、
「K先生!懐かしい!お元気なんですね!よろしくお伝えください」
ととても驚かれていた。
K先生にも師匠のことを言うと、
「そうなの?じゃあ彼、日本に帰ってきているんだね。よろしく伝えてね」
とニコニコしておられた。
その後、K先生からある舞台のエキストラとして、師匠への出演依頼の話が持ち上がったことがあり、私が仲介役をした。お二人とも、思い出話に花が咲いたそうである。

大変練習熱心で、今でも毎日3時間の練習を欠かさずやっておられる。
オーボエはクラリネットと違い、楽器に小さな豆を張り付けたような突起がついているだけで、指をしっかりひっかけて安定させることができない。コールアングレというオーボエ族の楽器にはストラップを付けることができるようになっているが、オーボエには無理である。
だから、楽器を支える右手親指の負担はとても大きい。先生の右手はいつも痛々しいテーピングだらけであった。一度、痛みませんか、と聞いたら、
「痛いんだよ。だけど毎日吹かないわけにはいかないからね」
と苦笑いされていた。
80歳を過ぎても、プロは「毎日吹かないわけにはいかない」のだなあ、と感心した。

指導はざっくり外枠から始める故A先生とは真逆で、最初から細かいことに物凄く拘るやり方だった。
例えばソリストのある音の音色が気に入らないと、すぐに演奏を止めて、気に入るまでとことんやり直しをさせる。
「もう一度やってごらん。その音はとっても大事なんだよ。もっと柔らかい音で吹かなきゃいけないよ」
と何度も吹きなおしをさせる。
用事のない人間は、それをずっと待っている。楽器は冷えて、手持無沙汰な時間をなんとか譜読みで潰し、何分も経ってから漸く合奏になる。が、楽器は冷えるとピッチが下がるので、再び合奏を始めるとなかなか耳に厳しい音程になる。
すると先生はまた合奏を止め、
「どうしてそんなに音程悪いかな」
と苦言を呈される。いや先生、さっきまでは合ってたんですけど…と言いたいのをぐっと我慢して、またピッチの調整に苦労することになる。

合奏練習時にソリストが休みの時などは、本来吹くのとは違う人が代わりにソロを吹くことがある。『代吹き』と言う。
本番で吹かない人間だから、普通は指導などしない。指揮者には練習時に、周囲なり本人なりが代吹きであることを伝える。時間の節約のためである。
ところがK先生はこの代吹きの人間にも熱血指導をする。時間が勿体ないので、先生彼は代吹きなんです、と伝えると、
「わかってるよ。だけどね、本番でソリストが熱を出すかも知れないんだよ。だからいつでも真剣にやらなくちゃダメだ」
と言って、ちゃんと吹けるようになるまで指導する。こうなると代吹きを立てた意味がなくなってしまい、代吹きの人間は肩身の狭い思いをすることになり、待っている人間はまた手持無沙汰な時間を過ごすことになる。

指揮もあまり上手ではなく、いつもこういった具合なので、失礼ながら指導者としては要領が良くない部類に入るのだと思う。が、K先生の音楽に対する情熱に、私たちはいつも圧倒されていた。
K先生の80歳のお誕生日に、団員からのお祝いのメッセージを団内報に載せることになり、各パートから一人ずつが選ばれた。クラリネットからは私が書くことになった。
10年以上お世話になってはいるが、そういえばK先生のことをあまり知らなかったなあ、と思い、レッスンの時に師匠に相談してみた。
K先生を一言で言うとどんな方だと思われますか、という私の問いに師匠はしばらく考えた後、
「音楽を心から愛している方、でしょうね」
と仰った。
私も全くその通りだと思った。その言葉を入れてメッセージを書いた。
K先生はとても喜んでくださった。

退団する時、直接ご挨拶させて頂いた。その日は丁度K先生のお誕生日だったので、先生のお好きなお菓子を手渡した。
先生はとても残念がって下さった。
「そう、残念だねえ。元気でね。また帰ってきた時は寄ってね」
と言って、柔らかい笑顔を見せて下さった。

今週末には楽団はコンサートを開催する。K先生も指揮と演奏で舞台に立たれるそうだ。お元気なのだな、と嬉しくなった。
良いコンサートになることを、心から祈っている。