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出会う意味

前の職場にAさんというシルバー雇用の男性がいた。
私はこの人が大嫌いだった。だった、というと嘘になる。今でもお目にかかりたくはない。

理由は沢山ある。
狡いのが腹立たしい。退勤5分前になると、必ずトイレに籠る。退勤時間になると出てきて、タイムカードを押す。そんなにしてまで働きたくないのか、と思う。給料泥棒と呼びたくなる。
楽な仕事しかしようとしない。重い物を運んだり、沢山の商品を陳列したりといったしんどい仕事はしようとしない。
その楽な仕事すらちゃんとしない。古い商品の手前に新しい商品を平気で突っ込む。注意されると「ワシちゃうで。誰やろなあ、そんな事すんの?」としゃあしゃあとみえすいた噓をつく。
服が黴臭い。貰えるものは我先にもらおうとする。社員にはへいこらする癖に、バイトにはぞんざいな口を利く…
もう数え上げればきりがない。
当然誰も彼と仲良くする者はいなかった。

当時はどうしてこんな人が働いているんだろう、同じ給料なのに随分働き方がちがうなあ、と何か損をしたような気になっていた。
同僚からも彼に対する同じような愚痴を沢山聞いた。上司も当然問題視していた。
しかし注意されてもどこ吹く風で、しばらくおとなしくしていてもほとぼりが冷めた頃にはまた元通りになり、また注意されるという繰り返しだった。
皆の関心が自分から逸れるのを、亀のように首を縮めてじっと待っている感じだった。
ここまで卑劣だと、同情する気にもなれなかった。

前の職場を退職してほぼ一年になるが、最近ちょっとAさんに対する考えが変わってきた。
勿論、好きになった訳ではない。同情の念も相変わらず沸かない。
Aさんではなく、Aさんに対してあれこれ感じていた、”私”に目を向けてみるようになったのである。

狡いAさんに対する私の憤りは、確かに常識的で正当なものだ。
しかし裏を返せば、『私だって楽してお金貰いたいのに!』という”嫉妬”と”羨望”の感情が見て取れる。自分も退勤5分前にトイレに籠れば彼と同じようにサボれる。勤務はひと月20日だったから100分。半年で10時間。時給1000円だったから、働かずに半年で10万円貰えるのだ。おいしいではないか。
私は勿論お金の為に働いていたのだが、その働き方は『社会的に正しいとされている事からはみ出さないように』『はみ出した事で世間から後ろ指刺されないように』という、大いに”人目”を気にしたもので、私が心からそうしたいと思っての働き方ではなかったかもしれない、と思うようになった。

誰だって同じ給料なら楽な仕事がしたい。前の職場では明らかに楽な仕事とそうでない仕事があった。
私も楽な仕事をしても良かった。するな、とは言われていなかった。でも敢えてしんどい仕事をした。それは『よく働いているね』という周囲の評価を得たいが為の無意識下の選択であり、『楽をしている』と批判される事への恐れでもあった。他人の評価を気にして、自分が楽な仕事をする事に自分で拒絶反応を示していた。
つまり自分ですき好んで”しんどい方の道”を選択していたのである。
別にAさんのように”楽な方の道”を取ったって良かった訳だ。
こうやってつらつら考えてみると、『Aさんが嫌だ』と思ったのは、私がしたくても出来ない事を、図々しく平気で堂々とやっているからなんだと気付いた。

今だってAさんの事は好きじゃない。
一緒に働いていた頃は、『この人何の為に生きているのだろう』と上から目線で見ていた。失礼な話である。
だが、私はこの人の存在がなければこんな事考えもしなかった。
感謝、というのではないがAさんと出会った事はちゃんと私にとって意味のあることだったんだ、と思えるようになった。

きっとAさんは首になっていなければ、今もあの職場でダラダラと”働いて”いるに違いない。
『そういう人生も”あり”なんだな』と善悪の判断をせず、そのまま見られるようになった。
そんな自分を静かに嬉しく思っている。