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その曲が教えてくれたこと

クラリネットのK先生にレッスンを受けていた頃の話である。
ある時、ゴードン・ジェイコブ作曲の「五つの小品」という曲が課題で出された。伴奏はなく、クラリネット一本のみのソロ曲。譜面ヅラはたいして難解ではない。しかし、何か吹いていて気持ち悪いというか、落ち着かないというか、なんとも気持ちの悪い感覚に陥った。音は鳴らせるけれど、いったいどういう感情をどこにどのように込めればいいのか、見当がまるでつかなかったのである。
先生がこの曲を私にさせようと考えた理由もよくわからなかった。技術の向上を狙うなら、多分もっと技巧的に難しい曲をやって来いと仰るはずだと思った。それくらい、平易な譜面だった。
レッスン日が近づくと焦ったが、毎日練習していても依然として状況は変わらなかった。そんな頭の中が五里霧中の状態のまま、とうとうレッスン日を迎えてしまった。

私が吹くのを黙って目を瞑って聴いていた先生は、
「吹いてみて、どう思いましたか?」
と開口一番、訊いた。
「はい・・・なんだか落ち着きませんでした。落としどころがわからないというか、どう表現したらいいのかわからないというか・・・迷っている間に今日になってしまいました。今も迷いながら吹きました」
私は素直にそういうしかなかった。
先生は頷くと、譜面の余白に鉛筆で
『無調性音楽』
と書いた。私にとって、初めて聞く言葉だった。
「調性がない、決まっていない音楽のことを言います。何調、と決まっていない音楽は最終的にどこに到達したいのか、見当がつきませんよね。だから迷って当たり前なんです。落ち着かなくて当然なんです。落としどころはありません。そういう落ち着かなさを狙った音楽です」
そんな音楽が存在することすら知らなかったから、私は新鮮な驚きを覚えた。

「僕がなぜ、これを貴女にやってきて、と言ったかわかりますか?」
先生は続けてそう言った。
「いえ、実は先生のお考えを量りかねていました。技術的には難しくないのに、どうしてだろうと思っていました」
これが失言だった。先生はギっと強いまなざしで私を見据えた。『オレの教えをこれだけ長く受けている癖に、何故わからないのか』と焦れる時の先生の表情である。首をすくめている私に、先生は強い口調でこう言った。
「落としどころのない、どこへ行くかわからない音楽でも、『自分はこう表現するんだ!』という強い意志を以て吹かなければならないんです。あなたにはそれを身に着けて頂きたいんですよ!でないと、ただ書かれている音符を吹いただけになってしまう。それは『音楽』ではありません。もう貴女はそんなことわかっているでしょう!この課題はそういう意図で出したんですよ!」
返す言葉が見つからなかった。

こういう時の先生は真剣だ。でも私は先生が真剣に向き合う相手をちゃんと選別しているのを知っている。そしてその真剣さの程度を、ちゃんと人によって加減していることも理解している。
「真剣に教えてください」なんて、言葉で頼んでもダメだ。先生の指導に『食らいつく』くらいでないと、真剣に教えてはもらえない。真剣に教えて欲しければ、真剣に練習するしかない。四の五の言わず、ただ出された課題と向き合うしかない。そしてわからなければわかりませんと、正直に白状するしかない。それが自分の為である。

よくテレビ局のアンケートなどで
「○○政権をあなたはどう思いますか?」
などと言うのがある。そして答えの選択肢は「はい・いいえ・どちらともいえない」の三つだったりする。
結果を見ていると、「どちらともいえない」が多数を占めていることが多い。
先生はこの「どちらともいえない」が、表現する時にはダメなのだ、という。選んでも良いのだが、「私はこういう理由で『どちらともいえない』にしました」と堂々と言えるくらいでないと、表現者は「なんとなく」ではいけないのだそうだ。
先生の通ってらしたドイツの音楽大学では政治学の授業があり、こう言った議論をしょっちゅうやらされたそうだ。初めの内、曖昧な答えをしていた先生は、周囲の学生のはっきりとした意思表示に、次第に「これではいけない」と必死で自分の考えを確立させるようになったそうである。

演奏する時は「自分はこういう風に表現したいのだ」という、確固たる意志が必要なのだ。世間的には可笑しいと思われても、「自分はこう考えてこういう風に演奏し、表現するのだ」というのをしっかりと持って舞台に上がらねばならないー。
楽器を演奏していない時でも、ふと昨日のことのようにあの時の先生の教えを思い出すことがある。
演奏も、生きることも、真剣勝負。どんな時も、自分の欲するところをきちんと見極めることが必要なのだ。
素晴らしい師匠に巡り合えた幸せに、あらためて感謝する今日この頃である。