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心を亡くす

久しぶりにとても慌ただしい1週間だった。
月曜日と火曜日はどちらも早朝番で、朝夫を送り出したあと手早く家事を済ませ、勤務先に向かった。丁度テナントが撤退したあと大幅改装があり、それに合わせて売り場の模様替えをした。掃除や商品の並べ替え等をしながらレジ業務をする事になった。おまけに高齢者向けの毎月の売出し日が重なり、いつもより草臥れて帰宅した。

仕事を終えた火曜日の午後に関西入り。到着後ホッと一息つく間もなく、木曜日の姑の入院前後のすったもんだまで、食事もまともに取れない状態を終えて、夕方の新幹線で帰宅。帰ってくると家事が多少は残っていて、済ませてから就寝したのは12時を少しまわった頃だった。

翌朝は早朝番。引き続き売り場模様替えの手伝いに忙殺される。早出は早上がりなので、14時過ぎには帰宅出来た。
疲れてはいたが、少しでも音出ししたいと思い、2時間だけカラオケボックスに練習に行く。
帰ってきて、久しぶりに夫と二人での夕食を作る。初物のサンマを焼いて、マツタケならぬエリンギご飯で秋を堪能。焼き魚は楽で美味しくて良い。
食後すぐA先生の訃報に接し、寂しい気持ちと感謝の気持ちが胸に去来した。なんだか目がさえて、寝付きが良くなかったようだ。

翌土曜日は遅番。正午から17:00までの勤務である。帰宅後予め作っておいたカレーをかきこみ、歯を磨いてすぐに合奏練習の会場に電車で向かう。
合奏は18:30から21:00で終了。疲れてはいたが、この時間は私にはかけがえのないものなんだなあ、としみじみ実感した。
帰りの電車でN先生と四方山話をする。先生のウイットに富んだお話は面白く、帰宅時間がいつもより短く感じられた。

日曜日。やっと朝ゆっくり眠れた。姑の介護用肌着を注文し、姉と電話で連絡を取り合って、家事を済ませて今これを書いている。
色んな事があった1週間だった。いつも自分との対話ノートを作成したり読書したりしているが、そんな時間はほぼなかった。

若い頃は、忙しい事は喜びだった。
仕事、恋人とのデート、趣味、友達との楽しいイベント…『忙しい』事に陶酔するような気持ちが心のどこかにあった。
よく考えてみると、この頃の『忙しい』は私にとって自分と向き合う事からの逃避の側面が大きかったように思う。
『忙しい』自分は誇りであり、その言葉は『充実した人生を謳歌している』と外に示して認めてもらうための勲章だった。
『自分は本当は何が好きなのか?どうしたいのか?どう在りたいのか?』の問を自分に発する事なく、ベルトコンベアーに乗ってやってくる様々なイベントをこなす事で、『充実した人生を生きている』気になっていたのである。

『忙しい』という字は『心を亡くすと書く』とよく言われる。
ここで言う『心』とは、『自分を見つめる目』なのかも、と思う。
今の自分が不甲斐ない、自分の目(本当はおおいに世間の目を気にした自分の目)に映る自分像に納得がいかない、でもそれを直視したくない時には『忙しい』は便利な言葉だ。
『忙しい』人は働いている、『忙しい』人は大変だ、『忙しい』人は凄い、という称賛を得る事に自動的になっている。
『忙しい』という衣さえ着ていれば安心だ。

でも、本当にそれは自分の望んだ『忙しい』なのか。
いつも自分に問いかけながら、『忙しい』に自分を絡め取られないようにしたい、と思った1週間だった。