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明治の女のしまい方

母方の祖母は、普段はとても砕けた気さくな人で、年齢を感じさせない陽気なおばあちゃんであった。だが母によると、自分が六十歳を迎えた時にはきちんと白装束一式と枕刀を用意し、母とおば達に
「私ももう、いつお迎えが来てもいい歳になった。死に装束はどこどこの引き出しに入っているから、私が万が一の時にはこれを使って」
とキチンと申し渡してあったらしい。
世話になりたい葬儀屋、入りたい墓、葬儀の執り行い方、その後の年忌法要をいつまでやるか、等々についても事細かに決めて伝えてあったそうだ。
祖母が実際に亡くなったのはそれから二十年以上後のことになったけれども、母達姉妹はおかげで祖母の言う通りに事を運べば良かったという。
父方の祖母もやはり似たような感じで、残された父達子供は、祖母の遺言通りに全てを執り行った。
「明治の女やから、『死に恥晒すまい』って強く思ってたんやろうねえ」
というのが父と母の感想だった。

夫や自分の両親の衰えていく様子を目の当たりにしていると、つくづく私の祖母たちは賢かったんだなあ、と思う。
自分の死に際して、遺された者たちが慌てることのないように、まだ元気なうちからキチンと準備をしておく、というのは、なかなか難しいことなのかもしれない。
自分の死というものをリアルに想像するのは決して良い気分ではないだろうし、あれこれと面倒な作業もあるだろう。自分のいない世界とそこに生きる我が子、孫たちの姿を思う時は十分寂しかったことと思う。
母方の祖母が亡くなった時、あんなに沢山あった祖父母の旅行の写真が、一枚残らず捨ててあったというのを聞いた時、驚くと共にばあちゃんは一体どんな気持ちでそれらを処分したのかな、としんみりした気分になったものだった。かなりの量だったから、きっと少しずつアルバムから剥しては破いていったのだろう。時折はちょっと手を止めて眺めることもあっただろうか。

今時は終活という言葉もあるくらいだから、何も祖母たちに限らずこういった準備をしておくのは、今でも大切なこととして認識されているのだろう。
終活というとネガティブな響きのように感じてしまいそうになるが、遺された者達が迷わないように、あの世に旅立つ自分が最後に恥ずかしくないように、という気持ちには温かい思いやりと同時に、何か潔いというか、凛としたものを感じてしまう。

私も祖母たちが終活を始めた年齢に近づきつつあるが、まだぼんやりとしたことしか考えていない。夫に至っては全くのノープランで、
「死んだら何にもわからへんやないか。何してくれてもかまわへんわい」
などと無責任な事を言ってすましかえっている。どこまでも夫らしいと思う。
私が決めているのは『墓に入らない』ことくらい。一人っ子の息子の足枷になるようなことは避けたいと思っている。葬儀もして要らない。戒名も要らない。死ぬ時だけ仏教徒になるなんて、なんか変だとずっと思っている。結婚式はキリスト教式だったし、名前は晴明神社で付けてもらったし、意味不明じゃないか。
私という肉体がこの世から消えるのについて、いろいろ煩わしいことは少ない方が良いと思っている。

楽器の後始末は吹けなくなったら考える。多分全部売れる。安価な初級者用の楽器はまだ綺麗だから、どこか学校に寄付しても良いだろう。そこもはっきりと言い残しておく必要がある。
蔵書は引っ越しの度に始末して、今はお気に入りの数冊しか手許にないし、CDはあと二百枚ほどあるけれど、どれもクラシックのいいものばかりだから、売ろうと思えば売れるだろう。服はホントに少ししか持っていないから、きっと処分はそんなに手間ではないと思う。古い型のものや、若すぎるデザインのものはボツボツ捨てていっている。

いろいろと考えはまとまりつつあるけれど、六十にはまだあと五年ばかりあるから、まだ具体的に行動はあまり起こしていない。六十まで絶対に死なない、という保証は何もないが、ぼつらぼつらと準備を始めようとは思っている。
決して捨て鉢で厭世的な気分になっている訳ではない。
自分が今後の命を気分良く生きられるように、身じまいの仕方を考えているだけのことである。いい加減にはしたくない。
こんな風に自分の行く末を少しずつ考える時、私の脳裏にはいつも、温かく潔くカッコよかった二人の祖母のしまい方が思い浮かぶのである。