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とんだラブレター

私の居た小学校では、長期間病欠している同級生に手紙を書く習慣があった。男女関係なく、全員が同じ原稿用紙を配られて、自分なりの見舞いの言葉を連ねるのである。
これを担任の先生が集めて穴をあけて束にしてリボンなどで結わえ、『○○さんへ △年×組のみんなより』と書いた表紙を付ける。そして休みの間のプリントやお手紙類と一緒に持って行きつつ、生徒の様子を見る為に、家まで赴く。
先生は病気の回復の様子などを家族から聞き取って、『お大事に』と言って帰る。臨時の家庭訪問、である。
当時は今のように殺伐とした世の中ではなかったから、教師の訪問は安否確認などではなく、本当の意味での『お見舞い』だったろう。

私も二度ばかり、これを貰ったことがある。
初めてもらったのは、確か小学校一年生の時だった。持病の喘息が悪化して、夏休みをまるまる寝て過ごした私は、ニ学期になっても暫く登校できず、ずっと寝ていたのである。
寝てばかりの、暑い、つまらない夏は、子供心に辛く寂しいものだった。
ニ学期になって暫く経ったある日、先生が例の手紙を携えてお見舞いに来て下さった。
私は起き上がることは許されなかったが、先生が母と玄関先で談笑するのを布団の中で聞いて、もうすぐ学校に行けそうな気がしてワクワクした。
先生が帰って行くと、母が二階の私の寝ている部屋に上がってきて、
「みんなからお手紙って、先生持ってきてくれはったよ」
と言いながら件の手紙の束を渡してくれた。

小学校一年生だから、まだまだ文章も皆拙い。
『頑張って早く病気を治して下さい』とか『早く一緒に遊べるようになると良いですね』などと、生徒の作文に先生が書く短い感想のような、同じような文面が多かったように思う。
普段仲良く遊んでいる子から『早く良くなってください』などとすましかえった手紙をもらうと、なんだかちょっと物足りないような気がしたし、逆に全く一緒に遊ばない子から『また一緒に遊ぼうね』などと書かれ、オマケに最後にハートマークなんかが描いてあったりすると、『私、この子といつ一緒に遊んだっけ?』などと小さな不信感が頭をもたげたりした。
そんな社交辞令的な文章が殆どだったから、読んでいて嬉しいとか楽しいとかいうものではなかったが、クラスのみんなが自分のことを思って書いてくれた、ということが嬉しかったのは間違いない。

男子などは一緒に遊んだりしない子が殆どだったから、全員揃えたように同じ文章だった。読む方も当然あまり熱が入らず、さあっと流し読みしていた。まあ、書いてくれてありがとう、くらいの感じだった。
ところが、私の読んだ手紙を受け取って、後から読んでいた母が突然、
「あんた、これ、なに?!」
と言って、一人の男子の手紙を指してケラケラ笑いだした。
そんな面白い文章あったっけ、と不思議に思いつつ、母の示した文面にあらためて目をやって、私も吹き出した。
同じクラスのH君の文章だった。

『ありまさんへ びょうきはもういいですか Kくんはこのまえかえるときに『ありまさんのことがすき』といっていました Kくんはありまさんのことがすきれす』
母と声を揃えて読み上げて、爆笑した。
H君は私よりも小柄な、カワイイ子だった。同じように小さいK君と二人、いつもつるんで、ちょっかいを出しにきたりしていた子だった。
どれどれ、とK君の手紙を見てみると、
『ありまさんへ Hくんはありまさんのことがすきです このまえかえりにぼくにいいました』
とこちらもお見舞いとは全く関係のない内容の文面で、これにも笑ってしまった。

どうやら、この年代に特有の
『お前、○○さんのこと好きやろ』『そういうお前こそそうやろ』
という冷やかしあいが、手紙という媒体を使ってなされたものと思われた。とんだラブレターである。
それにしても、『れす』には腹を抱えた。
H君は喋り言葉も『れす』に近かった。いつもちょっと舌足らずな言い方だったのだが、まさか書き言葉まで『れす』だとは思わなかった。
もう一度手紙を読み返して笑いながら、学校へ行くのがなんだか待ち遠しくなった。

登校できるようになった時には、K君もH君もあんな手紙を書いたことなど忘れたように、相変わらずちょっかいをかけては私達女子軍に怒られていた。
彼らは中学生になってもずっと小さ目サイズだったが、高校ではどうなっていたんだろう。生憎学校が違ったので、全くわからない。
彼らも今は良いお父さん、いやひょっとしたらお爺ちゃんになっているのかも知れない。
あんな手紙を書いたことはきっと忘れてしまっているだろう。

半世紀前の変な手紙をまだ覚えているなんて、拙い『愛の告白』が私はよほど嬉しかった?に違いない。
思い出の中の幼い私達は、いつも笑顔である。