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本当の望み

姉から電話がかかってきた。要件はもちろん姑のことである。
姑は骨折した腰の状態が随分よくなってきており、そろそろ退院を、と病院からは打診されている。が、本人は一人での生活に戻るのを不安がり、もう少し居たいというらしい。しかし、病気でない者を病院に置いておくわけにはいかない。
病院に居たいならそれらしい行いをすれば良さそうなものなのだが、それをしないところがウチの姑たる所以である。リハビリで持たされた 5キロのおもりが重すぎる、手がおかしくなった、どうしてくれる、とわあわあリハビリ担当の理学療法士さんに抗議してみたり、理学療法士さんの手が胸に触った、セクハラだ、と病院に訴えてみたりしているらしい。理学療法士さんが気の毒である。どう考えても自意識過剰としか思えない。姉も私も、いつも病院に行くたびに謝ってばかりいる。
姉には相変わらず携帯を持ってこい、カイロを持ってこいと顎でこき使うような内容の手紙を洗濯物に忍ばせてよこすらしい。
私は聞く度に爆笑しているが、姉も夫も浮かぬ顔である。まあ当然だ。
いやはや、立派なくそばばあっぷりである。

家に帰るといったって、姑は既に入院前から風呂に一人で入れていない。おまけに家の風呂は蛇口が壊れていて、直さないと湯が使えない。
浴槽は昔のスタイルだから深い。中で滑ったりしたら溺れてしまうだろう。手すりも勿論ない。風呂場までは寒い廊下を歩いて行かねば行き来できない。これからの季節、寒さに耐えかねて電気ストーブなどを点ければ、火災の危険は免れない。つまり足元のおぼつかない老人が一人で入るには危険すぎる風呂である。
家の中の状態は、この前舅の入院の時に姉と確認した通り物が溢れており、たとえ腰がなんともなくても自力で姑が生活するのは困難かと思われた。
悲しいことだが、家に帰ってきても姑の望むような以前の生活はできないだろう。毎日1時間ヘルパーさんを派遣してもらうとしても、他の時間は姑が独りで過ごさねばならない。それに耐えられれば良いが、姑はそういう人ではない。
きっと自らの不安解消の為に、あちこちに時間を問わず電話をかけまくるに決まっている。電話で済まなければ直接大きな被害?を被るのは近くに住む姉に決まっている。
この点は姉も、夫も、私も一致した意見を持っている。
孤独でなく、生活をするのに心配もなく、リハビリも続けられる、となると
老健施設がベストなのかな、という話になっている。なので現在調整中である。
が、姑は「病院」には居たくても、「施設」には行きたくない、あれは姥捨てだ、老稚園だ、といろんな施設があることを知ろうともせず十把一絡げに解釈して、昔から嫌がっている。

ここまでの話に、姑は全く入っていない。入院中で、隔離生活のような感じになっているからしょうがないとはいえるが、その意思を周りが想像するしかないのは、ちょっと違和感があるしもどかしい。
「こうすればきっとこういう風に言うだろう」とか「こういう扱いは嫌なんじゃないか」という風にいくら思い描いてみたところで、姑の本当の望みはわからない。そして、それが分かったところで、望み通りにできる可能性は悲しいかな、今のところかなり低い。

姑と長い時間を一緒に過ごしてきた姉や夫ですら、姑の本当の望みを正確に想像するのは難しそうに見える。主観の入らない私の方が冷静に分析できそうな気もするが、姑の考え方の背景にあることを十分知っている訳ではないからなんともいえない。
一番長い間姑と一緒に暮らした舅も入院中で会えず、意見を聞くことはできない。舅は決して暖かい人柄ではないが、冷静で客観的な目を持ち、いつも私達に深い考え方を示唆してくれる。なるほど、と思うことも多く、いつも頼りにしていた。
辛いところである。

病院の人を困らせるような言動は慎んでほしいけれど、姑は夫が厳しく叱れば泣き出すか怒り出すかするだろう。姉でも同様だ。激しい喧嘩になるに違いない。
見た目は大人だけど、姑は自分の子供達に対しては駄々っ子のようだ。
私だとたちまち鉄のカーテンを下ろして、精一杯分別をわきまえたおばあ様を装うだろう。とっくにバレているのに可笑しいが、まだまだ私は「余所者」なんだなあ、と悲しくもなる。
結局誰も、姑の心の底からの望みをわかってあげることはできないのかもしれない。

姑は本当はどうしたいのだろう。
他の家族も皆、笑顔で安心して過ごすためにはどうするのが一番いいのだろう。
答えはまだ誰も出せていない。