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前向きな没我の効用

友人の一人に、朝から晩まで空いた時間は全てクラリネットの練習に費やしている、という強者がいる。彼女は私と同い年なのだが、フルタイムで働き、家事をこなしながら、ちょっとした隙間時間も逃さず練習しているそうだ。ステージに立つ機会も自ら積極的に作り、数多くの舞台に立ち続けている。その体力と気力に密かに舌を巻いている。

「今が青春」だと彼女は常々言っている。好きな事に日々邁進しているせいか、彼女のノーメイクのお肌は、いつもツヤツヤで皺が見当たらない。本人は「マスクで大部分隠してるから」と謙遜?するが、演奏する時は当然マスクを取るので、隠しようがない。それでもイキイキツヤツヤである。いやー、素晴らしいお手本。身近にこういう女性(しかも同い年!)が居てくれると、嬉しくなってしまう。

彼女のように、自分の持っているエネルギーの大部分を、好きな事に注ぎ込めるのは素晴らしい生き方だと思う。『没我』という言葉がピッタリする。見ていて清々しい。

『没我』の意味を調べたら、『物事に打ちこんで、自己を意識しなくなる事』とあった。
誰しも『自己を意識しなくなる』瞬間はあると思う。それは気持ち良い時間である。何故だろう?
心が『自分』という意識から離れて、『自分』以外の何かに夢中になる境地は何故心地良いのか?

二通りのケースがあるだろう。
一つは『自分』という人間を見るのが辛い、嫌だ、という意識がある場合。
この時は『自分』からなるべく長時間、目を背けさせてくれる『何か』は、一見有り難い存在になる。よろしくない物への依存症などはこれに該当するだろう。この『何か』は残念ながら、『自分』の『魂』が欲する物でなくても良い事になる。
この『没我』には後ろ暗い自意識がずっと潜んでいるから、本当の意味での『没我』とは言えないのかも知れない。

もう一つは『これに夢中になっている自分は素敵だ!』と思える場合。
料理を失敗しても、職場でお客様からクレームを受けても、反抗期の子供と言い争いをしても、しょうがない。そういう『自分』もいる。だけど『これに夢中になっている自分』もいて、その『自分』は輝いている。心からそう思える事は、『自分』を元気にする。凹むような事をした『自分』を許して、次の一歩を踏み出すキッカケを作ってくれる。

人間、心から大好きな事をそれぞれが夢中になってやっていれば、世の中は全て上手くまわっていくのじゃないかなあ、なんてお気楽な事を思っている。